明史卷一百六十三 列傳第五十一 李時勉

名は懋、字の時勉で通った安福の人(?–1450年、諡は文毅、のち忠文と改む)。永樂の進士で太祖實録・成祖實録・宣宗實録の編修に加わった学者官僚。剛直な性格で天下を自分の責任と考え、永樂・洪熙の両朝で直言により下獄し、仁宗の前では金𤓰で打たれて肋骨三本を折るほどの廷辱を受けたが、宣宗の親鞫では忠と称えられて赦された。國子監祭酒として六年、訓励と諸生への厚遇で人材を盛んにし、王振に逆らって国子監前で枷にかけられたときは監生千余人が赦免を乞うた。直節と重望により士類の帰依するところとなった祭酒として、宋納・張顯宗・胡儼を超えると評された。

年表(11件)

篇目

  • この巻に立伝されるのは李時勉・陳敬宗・劉鉉・邢讓・林瀚・謝鐸・魯鐸の七人で、劉鉉に□琦、邢讓に李紹、林瀚に子の庭㭿・庭機と孫の□烴、魯鐸に趙永が附される。

出自と学問

  • 李時勉は名を懋といい、字の時勉で通った。安福の人である。子どもの時分から冬の寒い日には夜具で足をくるみ桶に入れて誦読をやめなかった。
  • 永樂二年(1404年)の進士に及第し、庶吉士に選ばれて文淵閣で学問を進め、太祖實録の編修に加わって刑部主事を授かった。さらに實録の重修にも加わり、書が成ると翰林侍讀に移った。性格は剛直で、天下を自分の責任と考えて憚らなかった。

永樂の直言と投獄

  • 永樂十九年(1421年)、三殿が火災に遭い、詔によって直言を求められると、時務十五事を条陳した。成祖はすでに北京への遷都を決めており、また遠方の人々を招き寄せている最中であったが、時勉は営建が不当であること、遠国からの入貢者を都のもとに群居させるべきでないことを述べたので、帝の意に逆らった。
  • しかし他の説はおおむね当時の弊害を言い当てており、帝は上奏文を地に投げつけながらも取り上げて読み直すこと再度に及び、結局多くが施行された。
  • ほどなく讒言を受けて下獄し、一年余りで釈放された。楊榮の推薦で復職した。

洪熙年間の廷辱と下獄

  • 洪熙元年(1425年)、ふたたび上疏して政事を論じた。仁宗は激怒し、便殿に召し出したが時勉は屈しなかったので、武士に命じて金𤓰で打たせ、肋骨が三本折れ、引き出されたときには死にかけていた。
  • 翌日、交阯道御史に改められ、一日に一囚を審理し一事を上言せよと命じられた。三度上章したところで錦衣衛の獄に下された。時勉はかつて錦衣千戸のある者に恩を施しており、その千戸がちょうど獄を管していたので、ひそかに医者を呼んで海外産の血竭で治療させ、死を免れた。
  • 仁宗は臨終の際、夏原吉に「時勉は朝廷で私を辱めた」と言い、言い終わるや激昂した。原吉が慰めて解いたが、その夕べに帝は崩じた。

宣宗の親鞫と赦免

  • 宣宗が即位して一年余り過ぎた頃、時勉が先帝の怒りを買った経緯を口にする者があった。帝は震怒して、使者に縛って連行せよ、自ら鞫問して必ず殺すと命じた。さらに王指揮に、その場で縛って西市で斬り、参内させるなと命じた。
  • 王指揮は端門西の脇門から出て先に向かい、使者はすでに時勉を縛って端門東の脇門から入ったので、両者は行き違いになった。
  • 帝は遠くに時勉を見て「小臣の分際で先帝に触れるとは。疏に何と書いたか、早く言え」と罵った。時勉が叩頭して「臣は、諒闇の中では妃嬪に近づくべきでないこと、皇太子を左右から遠ざけるべきでないことを申しました」と答えると、帝の顔色はやや和らいだ。ゆっくりと数え上げて六事に至ったところで止めたが、帝が全部述べよと命じると「恐懼のあまり全ては覚えておりません」と答えた。帝の意はいよいよ解け、「これは言いにくいことであったのだ。草稿はどこにある」と問うた。「焼きました」と答えると、帝は嘆息して時勉を忠と称え、その場で赦した。
  • 侍讀に復官した。王指揮が獄に赴いて戻ったときには、時勉はすでに冠帯を着けて階前に立っていた。

学士・祭酒として

  • 宣德五年(1430年)、成祖實録の修成により侍讀學士に遷った。帝が史館に行幸して金銭を撒き諸学士に賜ったとき、皆が身をかがめて拾う中で時勉だけは正しく立っていた。帝はそこで残りの銭を出して時勉に賜った。
  • 正統三年(1438年)、宣宗實録の完成により學士に進み、院事を掌り經筵官を兼ねた。正統六年(1441年)、貝㤗に代わって祭酒となった。正統八年(1443年)に致仕を乞うたが許されなかった。

王振との対立と枷刑

  • 当初、時勉が國學の改築を請うたとき、帝は王振に視察を命じた。時勉が振に特別の礼をとらなかったので、振は恨みを含み、落ち度を探ったが得られなかった。
  • 時勉がかつて彞倫堂の樹の枝を刈らせたことがあり、振はこれを「官樹を勝手に伐って自家に運び入れた」と言い立て、中㫖を取り付けて、司業の趙琬・掌饌の金鑑もろとも国子監の前で枷にかけた。
  • 官校が来たとき、時勉はちょうど東堂に座って課士の答案を閲していた。落ち着いて諸生を呼んで高下を品定めし、僚属に相談して甲乙を定め、榜を掲げてから出て行った。盛暑の折であったが、三日間枷を解かれなかった。
  • 監生の李貴ら千余人が闕下に赴いて赦免を乞い、石大用という者は身代わりを願う上章をした。諸生は朝門に集まり、その叫び声は殿庭にまで届いた。振は諸生が憤っていると聞いて騒乱を恐れ、また通政司が大用の章を奏したので内心恥じた。
  • 助教の李繼が㑹昌侯の孫忠に取りなしを頼んだ。忠は皇太后の父である。忠の誕生日に太后が使いを出して忠の家に賜り物をしたので、忠はついでに太后に奏し、太后が帝に言上した。帝ははじめこの件を知らなかったので、ただちに釈放させた。
  • 李繼は素行が放縦で、時勉がかつて厳しく諫めたことがあった。繼はそれを全部は用いなかったが、心では時勉の言葉に感じ入っており、ここに至ってその助けを得たのである。
  • 石大用は豐潤の人で、素朴で鈍く、はじめ六館では知られていなかったが、これによって名が京師に鳴り響いた。翌年の郷試に及第し、官は戸部主事に至った。

致仕と晩年

  • 正統九年(1444年)、帝が学に臨んだとき、時勉が尚書を進講した。言葉も趣旨も明快で、帝は喜んで賜り物を加えた。続けて上疏して致仕を乞うたが許されなかった。
  • 正統十二年(1447年)春、ようやく許された。都門の外まで見送りに出た朝臣と国子生はほぼ三千人に及び、遠くは船着き場まで送って、船が出てから去る者もあった。
  • 英宗が北狩となると、時勉は日夜悲嘆し、孫の驥を闕下に遣わして上書させ、将を選び兵を練ること、君子に親しみ小人を遠ざけること、忠節を褒め表すこと、車駕を迎え還して復讐雪辱することを請うた。
  • 景㤗元年(1450年)、褒め讃える㫖を得たが、時勉はすでに卒していた。年七十七。諡は文毅。成化五年(1469年)、孫の顒の請願により諡を忠文と改め、禮部侍郎を贈られた。

祭酒としての事績

  • 祭酒であること六年、格・至誠・正の四号を掲げて訓励がきわめて切実であった。廉恥を尊び、猟官を抑え、賢否を分け、勧懲を示した。諸生で貧しくて婚礼や葬礼のできない者には、自分の食費を節約して補い、読書と灯火の費用を監督して与えたので、諸生の吟誦の声が絶えず、人材は昔にまさって盛んであった。
  • はじめ太祖の代には宋納が祭酒として最も名高く、その後、寧化の張顯宗が學規を明らかにして訥に比せられ、胡儼は成祖の世にとくに人師と称された。しかし直節と重望によって士類の帰依するところとなった点では、時勉に及ぶ者はなかった。
  • 英國公張輔および諸侯伯が、そろって国子監に赴いて講を聴きたいと奏したので、帝は三月三日に行くよう命じた。時勉が師席に上り、諸生が順に並び、五經各一章を講じた。事が終わって酒饌を設けると、諸侯伯は「教えを受ける場であるから諸生の列に着くべきだ」と譲り、張輔だけが対等の礼をとった。諸生が鹿鳴の詩を歌い、賓主なごやかに暮れ方まで過ごして散じた。人々はこれを太平の盛事と称えた。