明史卷一百六十二 列傳第五十 陳祚

出自と均州への謫居

  • 陳祚は字を永錫といい、呉の人。永樂年間の進士。河南參議に抜擢された。永樂十五年(1417年)、布政使の周文襃・王文振と連名で「北京に都を置くのは不便である」と述べ、そろって均州太和山の佃戸に謫された。自ら耕して力を尽くし、平然としていた。仁宗が立って、謫遷された諸臣を選び用いる詔が下り、祚も選に入ったが、帝が崩じて登用されなかった。宣徳二年(1427年)、憲臣に命じて均州で試験させ、祚は策で第一となり、吏部の試験でも第一となって、御史に抜擢された。
  • 福建を巡按し、方面の大吏の多くが弾劾を受けた。和買(官による強制買い上げ)を禁じ、閩の人はその徳を慕った。帰って上奏し、白塔河は上は邵伯湖に通じ下は大江に注ぎ、蘇州・松江の舟が多く往来するのに浅く狭く塞がっているとして浚渫を請い、認められた。漕運はこれによってはたして便利になった。

勧学の上疏と長い投獄

  • まもなく江西の按察に出た。当時は天下太平で、帝はかなり遊猟や玩好にふけっていたので、祚は急ぎ疏を上げて聖学に励むよう勧めた。その概略はこうである。「帝王の学はまず理を明らかにすることであり、理を明らかにするのは読書にあります。陛下には聖徳がおありですが、経筵はさして開かれず、講学に定まった日程がありません。それでは聖賢の精微も古今の治乱も、どうして知り尽くせましょう。真徳秀の『大學衍義』一書には聖賢の格言がことごとく載っております。願わくは政務の合間に儒臣に講説を命じ、重大な事情がなければ中断しないようになさってください。古今がどうして治まり、政事がどうして得られるかをお知りになれば、必ずや聡明を広げ徳業を輝かせ、奇巧をもって聖心を惑わす邪佞の徒は、おのずと遠ざけられましょう。天下の人民の受ける福は限りありません」。
  • 帝は疏を見て大いに怒り、「小僧っ子め、朕が『大學』を読んでいないというのか。ここまで朕を軽んじるとは、誅さぬわけにはいかぬ」と言った。学士の陳循が頓首して「俗士は遠くにいて、陛下が読まぬ書はないことを知らないのです」と述べ、帝の意はやや和らいだ。祚は下獄し、その家族十余人も逮捕され、隔離して拘禁されること五年、その父はついに痩せ衰えて死んだ。
  • そのころ刑部主事の郭循は、皇城の中に手を広げて離宮を造ることを諫め、逮捕されて面と向かって詰問されたが、抗弁して屈せず、これも下獄した。英宗が立つと祚と循はともに釈放され復官した。
  • 祚は再び湖廣を按察したが、遼王貴烚の罪の奏上に隠したところがあったとして、巡撫侍郎の呉政とともに京に逮致され下獄し、まもなく赦されて出た。
  • 当時は王振が権を握り、法の運用がことさら厳峻であった。祚は上言した。「近ごろ法司の裁断は定律に違うことが多く、たとえば侍郎の呉璽が主事の呉軏を誤って推挙した件は、貢挙其の人に非ずの律に当たるのに、奏事に規避ありの律で斬に当てております。また軏が首を吊って死んだ件で、獄官と獄卒の罪は順に軽くすべきなのに、不応為の重罪を引いて一律に杖打っております。一事がこの調子ですから、他も推して知るべきです。天候が順当でなく災異がしばしば現れるのも、これと無関係ではありますまい」。帝はこれを是とし、その章を法司に示した。
  • まもなく南京に移り、福建按察使僉事に遷って、威と恵があった。祀典に載らない神祠はすべて撤去した。久しくして病により帰郷して没した。
  • 祚は生まれつき厳格で、子弟でさえその談笑に接することがまれであったが、ひとり同郷の邢量を重んじた。量は博学の士で、占いに身を隠し、破れ屋数間に住んで、一日中火を起こさないこともあった。祚はたびたび書物を抱えて疑問を質しに行き、しばしば日暮れまで語り合った。
  • 郭循は字を循初といい、廬陵の人。官にあって才能の評判があった。復職後、郎中に進み、尚書の魏源の推薦によって廣東參政に抜擢され、寇の討伐に功があった。景泰の初めに没した。