明史卷一百六十二 列傳第五十 劉球

安福の人、字は廷振。永樂十九年の進士で、禮部主事から翰林侍讀に進み、経筵に侍して『宣宗實録』の編修にも加わった学者肌の言官である。麓川への大挙出兵に反対する上疏を行い、さらに雷震に応じて先んずべき十事を論じ、権を握る王振とその腹心の欽天監正彭徳清の怒りを買った。詔獄に下されて指揮の馬順に惨殺され、遺体は獄戸の下に埋められた。のち土木の変で王振らが滅びると、景帝はその忠を憐れんで翰林學士を贈り、忠愍と諡して郷里に祠を立てた。附伝の陳鑑もまた麓川遠征に反対して王振に憎まれ、下獄した。

年表(3件)

出自と麓川出兵反対の上疏

  • 劉球は字を廷振といい、安福の人。永樂十九年(1421年)の進士。家に居て読書すること十年、学びに来る者がたいそう多かった。禮部主事を授けられ、胡濙の推薦によって経筵に侍し、『宣宗實録』の編修に加わり、翰林侍讀に改められた。従弟の劉玭が莆田知縣となって夏布一枚を贈ってきたときは、書とともに送り返して戒めた。
  • 正統六年(1441年)、帝は王振の言によって大挙して麓川を征した。球は上疏した。「帝王が四方の異民族を御するには、必ず小さきは寛容し大なるものに備えるものです。それが緩急の宜しきにかない、天下永安の計となります。周は崇を伐って勝てず、退いて徳教を修めて相手が服するのを待ちましたが、玁狁に対しては南仲に命じて朔方に城を築いて備えました。漢は南越を征して利あらず、ただちに兵を収めて書を賜わって通好しましたが、匈奴に対しては和親したのちも、なお民を募って塞下に移し、粟を納めさせて辺境を充実させ、さらに魏尚に雲中を守らせて防ぎました。 いま麓川の残寇である思任𤼵はもとより羈縻の属で、辺将が統御を誤ったために大兵を煩わせたのです。首魁はまだ滅ぼしていないとはいえ、その一味は多く殺しました。誅するも赦すも大勢に関わりません。璽書でその罪を許し自新させるのは、たいそうな徳です。ところが辺将は聖意を解さず、また大挙を議し、十二万の兵を雲南に屯して降伏を迫り、降らなければ攻めようとしています。王師は軽々しく出すべきでなく、蛮の性は急には馴らせず、険阻な地に大軍は使えず、客兵は長く留められないことを考えておりません。まして南方は水害と旱魃が相次ぎ、軍民ともに困窮しています。ここでまた人を動かせば、紛擾こそ憂いです。臣はひそかに、周や漢が崇や南越に対したように、天誅を緩めるべきだと考えます。 衛拉特(オイラト)はいずれ辺境の患いとなります。まだ騒ぎ出さないうちに、時に応じて防禦すべきです。ところが甘肅の守将を移して南征に充てようとしています。にわかに警報があれば何をもって防ぎましょう。臣はひそかに、周や漢が玁狁・匈奴に対したように、慎重に防遏すべきだと考えます。 伏して望みますに、陛下は大挙の議をやめ、知謀ある将帥を選び、才識ある大臣を補佐につけ、官軍を程よく調えて金齒などの要害に分屯させ、木邦などの蛮を結んで援けとし、隙を見て進攻し、機に応じて撫諭なされば、寇はおのずと服しましょう。西北の障塞については、辺臣に敕して巡視させ、溝と垣を浚え築き、城堡を増修し、訓練に励み守望を厳しくして不慮に備えるべきです。備えあれば患いなしの道であります」。
  • 章は兵部に下されたが、南征はすでに命が下っているとして、球の言は用いられなかった。

雷震に応じた十事の上疏

  • 正統八年(1443年)五月、雷が奉天殿を撃った。球は詔に応じて、先んずべき十事を上言した。その概略はこうである。
  • 一、古の聖王は無益なことをしなかった。ゆえに心が正しく、天も違わなかった。皇上には経筵にしばしば臨み、儒臣を進めて至道を講求させ、学問を極めて理と欲を截然と分かたれたい。聖心が正しければ天心もおのずと順う。
  • 一、政が己から出れば権は下に移らない。太祖・太宗は日に三たび朝を視、時に大臣を便殿に召して庶政を裁決され、権は上に総べられていた。皇上は御位に臨んで九年、事の要領も日ごとに熟しておられる。二聖の成規を守り、再び親裁の故事に戻し、権を一つに帰されたい。
  • 一、古の大臣の選任は必ず左右・大夫・国人に諮り、罪を犯しても大辟に当たるほどであってさえ刑を加えず、死を賜わるにとどめた。いまは大臣の任用が必ずしも公論から出ず、小さな過失があればすぐ枷をはめ杖で打ち□、しかもいくらもたたぬうちに復職させている。大臣を待遇する道ではない。今後の大臣の選任は衆論に適うようにし、小さな過ちは不問に付し、まことに容れがたければ法司に下して罪を定め、自ら処するに任せて、みだりに拘禁しないでいただきたい。天職を共にするという意に背かぬためである。
  • 一、いまの太常は古の秩宗である。清廉慎重で礼に習熟した臣を得てこそ神明と交われる。いま卿と次官がともに欠けている。儒臣を選んでその職を領させるべきである。
  • 一、古の人君が方々を巡狩したのは、吏の得失を察し民の苦しみを問うためである。両漢・唐宋の盛時にはたびたび使者を遣わして郡県を巡行させ、洪武・永樂年間にも行われた。いまは久しく行われないので、吏に貪虐が多く民は生きるすべがなく、軍衛ではことに甚だしい。公明廉直で有能な臣を選んで天下に分け遣わすべきである。
  • 一、古の人君が刑獄に自ら関わらず必ず理官に付したのは、喜怒に従って軽重が生じるのを恐れたからである。近ごろ法司の上げる裁断は敕を奉じて増減されることが多く、法司は所信を奏することができず、他の囚人を訊問するときも顔色をうかがって軽重を決めるので、民に冤罪が多い。それぞれの職を全うさせるべきである。磚を運ばせ米を納めさせる類の例も、みな古法ではない。とりわけ廃すべきである。
  • 一、『春秋』は営築をことごとく書き記した。民を労することを戒めたのである。京師の造営は五、六年に及ぶ。「民を煩わせず軍を使っている」というが、軍だけは国家の赤子でないというのか。まして造営はおおむね完成しているのだから、工事をやめてその力を休めるべきである。
  • 一、各地の水旱に有司が救済しないので租税の減免を請うのだが、それも空文に終わりかねない。戸部に命じて時に応じて振済し、程よく減免して、生業を失わせぬようにすべきである。
  • 一、麓川は連年の用兵で死者は十のうち七、八、軍需と爵賞は数えきれない。いままた蔣貴を遣わして遠く緬甸を征し、思任𤼵の引き渡しを責めているが、たとえ捕らえて帰っても大通りで首をさらすにすぎない。緬はこれを手柄として必ず木邦とその地を分けようと求め、与えなければ怒らせ、与えれば二つの蛮がともに強大になる。これでは一つの麓川を減らして二つの麓川を生むことになる。もし食い違いがあれば兵事は際限がない。臣は皇上が重囚を録するたびに多くを赦して従軍させるのを見ております。その仁心をもってしながら、いま一人の地を失った逃亡の寇を生け捕るために、数万の罪なき人々を死地に駆り立てるのは、生を好む仁に背きはしないでしょうか。まして思機𤼵はすでに人を遣わして貢を献じており、悔い改めて赦しを乞う意がないわけではない。緬に敕して任𤼵の首を斬って献じさせ、あわせて思機𤼵に敕して四境の地をすべて削り、新たに帰属した各寨の蛮に分け与えれば、一方は安んじよう。
  • 一、迤北(北方)の貢使は日ごとに増え、禍心を包蔵していて、まことに計りがたい。給事中と御史を分け遣わして京師と辺境の官軍を閲視させ、時に応じて訓練させ、諸厰の工事や私家の使役に借り出させてはならない。武挙の選を公正にして良将を求め、召募の法を定めて武勇の者を招き、屯田を広げ塩法を公正にして備蓄を厚くすべきである。そうすれば武備は欠けることなく、外患にも備えがある。
  • 疏が上がると廷議に下され、「球の奏のうち、太常官を選ぶ件だけは従うべきである」とされた。そこで吏部が修撰の董璘を推挙したところ、璘は太常官への転任を願い出て享祀の事を奉ずることとなった。

王振一党による惨殺と死後

  • はじめ球が麓川の件を述べたとき、王振はすでにこれを不快としていた。欽天監正の彭徳清は球の同郷であるが、かねて王振の腹心で、天文に変異があってもみな隠して奏せず、王振の勢を頼んで不正を働き、公卿の多くが伺候するなかで、球だけは一切付き合わなかった。徳清はこれを恨み、そこで疏の中の「権を攬る」という語を抜き出して振に「これは公を指しております」と言ったので、振はいよいよ激怒した。ちょうど董璘の疏が上がったところだったので、振は球が同謀だとして、あわせて逮捕し詔獄に下し、指揮の馬順に球を殺すよう命じた。順は深夜に一人の小校に刀を持たせて球のもとに至った。球は寝ていたが起き上がり、「太祖、太宗」と大呼した。首を斬られても体はなお立っていた。そこで手足を切り離し、獄の戸口の下に埋めた。璘はかたわらから血に染まった裙をひそかに取り、球の家に届けた。のちに子の鉞が一本の腕を探し出し、裙に包んで納棺した。
  • 順には子があり、久しく病んでいたが、突然起き上がって順の髪をつかみ、拳で打ち足で蹴って「老賊め、おまえの後日の禍いは私以上だぞ。私は劉球だ」と言った。順は驚き恐れ、ほどなくその子は死に、あの小校も死んだ。璘は字を徳文といい、髙郵の人。孝行の評判があり、獄が解けるとそのまま帰郷して二度と出仕しなかった。
  • 球の死から数年後、はたして衛拉特が侵入し、英宗は北狩し、王振は殺され、朝士はその場で馬順を撃ち殺した。徳清は土木から逃げ帰って下獄し、斬に処されることになったが、まもなく獄死したので、詔によってその屍を戮した。景帝は球の忠を憐れみ、翰林學士を贈り、忠愍と諡し、郷里に祠を立てた。
  • 球には二子があり、長男は鉞、次男は釪。ともに学に励み、自ら耕して母を養った。球に恤みが下ってから、兄弟はようやく出て科挙に応じ、前後して進士となった。鉞は廣東參政、釪は雲南按察使に至った。