明史卷一百六十一 列傳第四十九 宋端儀

出自と『革除録』

  • 宋端儀は字を孔時といい、莆田の人。成化十七年(1481年)の進士。禮部主事となった。雲南の提學官が欠けたとき、部議で端儀にあてようとしたが、吏が先に漏らしてしまった。端儀は「上申もまだなのにすでに人の口にのぼっている。私が猟官したと思われよう」と言い、力を尽くして辞退した。のち主客員外郎に進み、貢使の贈り物はすべて退けて受けなかった。
  • はじめ国学にあったころ祭酒の邱濬に認められたが、濬が政権を握ってからは一度もその門に行かなかった。廣東の提學が欠けたとき、部は端儀の名を上げたが、濬はついにこれを阻んだ。濬が没して、ようやく按察僉事として廣東の学校を督し、在官のまま没した。
  • 端儀は建文朝の忠臣が埋もれてしまったことを憤り、遺事を捜し集めて『革除録』を作った。建文の忠臣に記録があるのは端儀に始まる。

史論

  • 贊にいう。明初は監司・守牧の任を重んじ、尚書が布政使として出、侍郎が參政となることもあり、監司が卿貳に入ることも次々にあった。守牧が職に堪えれば位階を加えられ、二品に至ることさえあった。天順以後は廵撫への委任が専らとなり、監司や守牧は自ら手腕を伸ばせなくなって、内を重んじ外を軽んずる趨勢ができあがった。そもそも外に政を布くことは民に最も近い務めである。李昌祺・陳本深の輩が静かに民を愛し、況鍾・張昺がその職に力を尽くしたのは、いわゆる「宣布された徳化を承けて天子のために憂いを分かつ」者ではないか。周新と陳選が冤罪で死んだのは哀れむべきである。張褧の上書を読めば、公正が人を服させることの深さと、直道がついに滅びないことが、あわせて見てとれる。