出自と鉛山知縣としての断獄
- 張昺は字を仲明といい、慈谿の人。都御史の張楷の孫である。成化八年(1472年)に進士に挙げられ、鉛山知縣を授けられた。性格は剛毅明敏で断獄に長けた。
- 娘を嫁がせた家があり、婿の家の門に着いたところで娘が消え、両家が互いに訴え出たが、裁けなかった。昺が邑の境を回ったとき、大木が作物の生育を妨げているのを見て伐らせようとすると、民は「木には神がいて梢に巣を作っています」と言った。昺は聞かず、人を率いて伐りに行った。衣冠を着けた三人が道の左で拝したが、昺が叱ると忽然と消えた。木を伐ると木の間から血が流れ出た。昺は怒って自ら斧を振るい、ついに倒したところ、巣の中から二人の婦人が落ち、「狂風に吹かれて楼上に運ばれた」と言った。その一人が先に嫁いだ娘であった。
- ある巫が姿を隠して婦女を犯すことができた。昺は巫を捕らえて厳しく杖打ったが苦しむ様子がなく、そのうち巫は消えてしまった。昺は馳せて縛って帰り、巫の背に印を押して鞭打つと、たちまち死んだ。そこで淫祠をすべて破却した。
- ある寡婦が一人息子を虎に食われたと昺に訴えた。昺は婦人と五日後を約し、斎戒して城隍の神を祀った。期日になると二頭の虎が庭に伏した。昺は「わが民を害したのは誰か。法として死に当たる。罪なき者は去れ」と叱ると、一頭は起きて尾を垂れて去り、一頭は伏して動かなかったので、これを射殺して節婦に与えた。一縣は神のようだと称した。
- 鉛山の習俗では、婦人は夫が死ぬとすぐ再嫁し、夫が病んでまだ死なぬうちに先に結納を受けて薬を用意させる者さえあった。昺はその俗を改めようとし、寡婦にはみな文書を出させて判を受けさせ、二本の木を立てて、「羞(恥)」を再嫁する者に跪かせ、「節」を嫁がぬ者に跪かせることとした。民の傅四の妻の祝氏は、死んでも舅姑を守ると誓っていたが、だまされて「羞」の木の下に跪かされた。昺がそのとおりに裁いたので、祝氏は裏庭の池に身を投げて死んだ。邑が大旱になった夜、昺は婦人が泣いて拝む夢を見た。目覚めてその里と姓名に思い当たり、行って事情を問いただし、土を掘り起こすと顔かたちは生けるがごとくであった。昺は激しく哭して「この婦を殺したのは私だ」と言い、文を作って祭り、改葬した。すると大雨が降った。その他の変わった施政もおおむねこの類である。
南京御史としての諫言と晩年
- 南京御史に抜擢された。𢎞治元年(1488年)七月、同僚とともに上言した。「近ごろ臺諫が相次いで事を論じておりますが、行幸に扈従して儀を糾す者が錦衣の笞打ちの辱めを免れないのは、言路がふさがる兆しです。経筵は開かれましたが、上疏が重ねられてもついに寒暑による停講の説をくつがえせないのは、聖学が怠る兆しです。内寵は梁芳を斥けたものの、賜祭がなお便辟の徒に及ぶのは、寵倖が再び開かれる兆しです。外戚は萬喜を罪したものの、莊田がまた皇親に賜わるのは、姻戚を驕らせる兆しです。左道は斥けられたのに符書がなお宮禁に掲げられ、番僧がまもなく京師に戻ったのは、異端が復活する兆しです。傳奉は廃したのに千戸に張質が再任され、通政から張苖が去らないのは、傳奉が再び開かれる兆しです。織造は停止したのに、なお蟒衣・牛斗の織があると聞くのは、淫巧の兆しでありましょう。寳石は廃したのに、また外戚に時ならぬ賜与があると聞くのは、珍玩が尊ばれる兆しでありましょう。詩に『初めのないものはないが、終わりを全うできる者は少ない』とあります。どうか陛下は戒めとしてください」。帝は嘉納した。
- それ以前、昺は雷が孝陵の柏の木を撃ったことを機に、同僚とともに大學士の劉吉ら十余人を弾劾し、給事中の周紘も同僚とともに吉を弾劾したので、吉は恨みを抱いていた。その冬、昺と紘が命を受けて軍を検閲したところ、隊伍の欠員が多かったので、二人は守備中官の蔣琮を弾劾しようとした。琮は先手を打って二人を弾劾し、奏章が内閣に下されると、吉は遺恨を晴らそうと外任に落とす案を作った。尚書の王恕が抗議の章を上げ、「隊伍を欠いた罪を問わずに法を執行する臣を罪するのでは、何をもって天下を服させましょう」と述べ、重ねて上疏して争い、言官も救いを論じたので、昺は南京通政司經歴、紘は南京光祿寺署丞に移されるにとどまった。
- 久しくして昺は推薦によって四川僉事に遷った。富豪が人を殺してもたびたび賄賂で免れていたので、御史が檄を出して昺に処理させたところ、はたして実情を突き止めた。まもなく副使に進んだ。守備中官の某が術士の周慧を朝廷に推挙しようとしたときは、昺は慧を捕らえて極辺に流す判決を下した。
- 一年余りで病と称して帰郷した。家は四壁ばかりで、経史を抱えて自ら楽しんだ。都御史の王璟が救荒のため訪れ、昺に百金を贈ったが、堅く拒み、受けざるをえなくなると、下層の飢民に粟を配ってその意に応えた。知縣の丁洪は、昺が鉛山にいたころに取り立てた士であったので、朝夕伺候して粗末な食事を用意したが、昺は「私はまことに自活できないが、どうしてそれで令君を煩わせようか」と言い、ついに受けなかった。炊事の煙が絶えることもたびたびであったが、平然としていた。没したとき、納棺の支度も整わず、丁洪がその喪を取り仕切った。