明史卷一百六十一 列傳第四十九 李昌祺

出自と河南の治績

  • 李昌祺は名を禎といい、字で通っていた。廬陵の人。永樂二年(1404年)の進士で庶吉士に選ばれ、『永樂大典』の編修に参加した。稀覯の書や不明の事柄について、人々の多くが彼に質問した。禮部郎中に抜擢され、廣西左布政使に遷ったが、事に坐して労役に謫され、まもなく赦されて帰った。
  • 洪熙元年(1425年)、旧官のまま河南で起用された。右布政使の蕭省身とともに豪猾を取り締まり、貪残な官を退け、滞った事務を処理し、廃れたものを興し、災害を救い、貧者を恤み、数か月で政化が大いに行き渡った。喪のため帰郷し、宣宗はすでに侍郎の魏源を後任に命じていたが、そのころ河南が大旱に見舞われた。廷臣は昌祺が廉潔寛厚で河南の民が慕っているとして起用を請い、奪情して赴任させ、その撫恤はきわめて手厚かった。
  • 正統改元の年(1436年)、三件を上書していずれも認められた。正統四年(1439年)に致仕した。家居すること二十余年、足跡を公府に踏み入れず、古い住まいはようやく風雨をしのぐ程度、伏日・臘日の供物も満足に整わなかった。景㤗二年(1451年)に没した。
  • 蕭省身は㤗和の人。昌祺と同じ年の進士。洪熙元年(1425年)、布政の考課が満期となって誥命を賜わるべきときに、父が八十余歳であるとして父に与えるよう願い出た。帝は嘉して許し、以後これが例となった。河南に在ること十二年、治績は昌祺と並び称された。