明史卷一百六十一 列傳第四十九 周新

出自と「冷面寒鐵」

  • 周新は南海の人。もとの名は志新、字は日新。成祖がつねに「新」とだけ呼んだので、それが名となり、志新のほうを字とした。洪武年間に諸生から貢挙されて太學に入り、大理寺評事を授けられ、裁判に長けていると評された。
  • 成祖が即位すると監察御史に改められた。直言をはばからず弾劾するところが多く、貴戚は震え上がって「冷面寒鐵(冷たい顔をした寒々しい鉄)」と呼んだ。京師では子どもを脅すのに新の名を使い、子どもはみな逃げ隠れたという。

巡按としての建議

  • 福建を巡按したとき、都司・衛所が府州縣を軽んじてはならず、府と衛の官が会うときは対等の礼をとるべきだと奏請し、武人はこれによって慎むようになった。
  • 北京の按察に改められた。当時、徒刑・流刑にあたる罪人を北京の閑田を耕させる令があったが、拘禁したまま量刑の照会を往復して返答を待つため、獄死する者が多かった。新は、北京行部か巡按が詳らかに認可してその場で送り出し、滞留を防ぐよう請い、許された。あわせて畿内の処刑対象の罪人には贖罪を許すよう命じられた。帝は新をよく知っており、その奏請は認められないものがなかった。
  • 帰朝するとすぐ雲南按察使に抜擢されたが、赴任前に浙江に改められた。長く獄につながれていた冤罪の民は、新が来ると聞いて「これで生きられる」と喜び、はたして冤は晴らされた。

浙江での断獄

  • 新が入境したとき、蚋の群れが馬の頭に集まってきた。跡をたどると藪の中に死人があり、身に小さな木印がついていた。新は印を検分して死者が布商だと知り、ひそかに広く布を買わせて、印文の合う者を見つけて捕らえ取り調べ、盗をすべて捕らえた。
  • ある日、執務中につむじ風が葉を吹き落として机の前に落ちた。他の木の葉と違うので左右に尋ねると、ある僧寺にだけその木があるという。寺は城から遠かったが、新は僧が人を殺したと考え、その木を掘らせると、はたして婦人の屍が出た。取り調べて事実を確かめ、僧を磔にした。
  • ある商人が夕暮れに帰るとき、強盗を恐れて金を叢祠の石の下に隠し、帰って妻に話した。翌朝行くと金がなかったので、新に訴え出た。新は商人の妻を呼んで訊問したところ、はたして妻に情夫があり、商人が急に帰ったとき情夫はまだ妻のもとに隠れていて、商人の話を聞き、夜のうちに取ったのだった。妻と情夫はいずれも死罪となった。そのほか隠れた悪事を暴いた例は、みなこの類である。
  • 微服で管内を回ったとき、県令の機嫌を損ね、令は拷問しようとしたが、按察使が来ると聞いて獄につないでおいた。新は獄中から囚人たちに尋ねて令の貪汚の実状をつかみ、獄吏に「私が按察使だ」と告げた。令は驚いて謝罪したが、弾劾して罷免させた。
  • 永樂十年(1412年)、浙西が大水になったのに通政の趙居任は隠して報告しなかった。新が上奏すると、夏原吉が居任を弁護した。帝が再調査を命じたところ、新の言うとおりであったので、免税と救済が行われた。
  • 嘉興の賊である倪𢎞三が近隣の郡を掠奪し、一味は数千人、たびたび官軍を破っていた。新は兵を督して捕らえにかかり、諸港の分かれ目に木柵を並べた。賊が陸に上がって逃げると追跡し、桃源で縛って献じた。この当時、周廉使の名は天下に聞こえた。

紀綱の讒言と刑死

  • 錦衣衛指揮の紀綱が千戸に命じて浙江で探索させ、賄賂をむさぼって威福をほしいままにしていた。新が取り調べようとすると逃げ去った。ほどなく新が文冊を携えて入京する途中、涿州でその千戸に出会い、捕らえて州獄につないだが、脱走して紀綱に訴えた。紀綱は新の罪を偽って奏上し、帝は怒って新の逮捕を命じた。旗校はみな錦衣の息のかかった者で、道中で拷問して肌に無傷の所がなかった。到着すると階下に伏して声を張り上げ、「陛下は按察司の職務を都察院と同等とする詔を下されました。臣は詔を奉じて奸悪を捕らえたのに、なぜ臣を罪とされるのですか」と述べた。帝はいよいよ怒って殺すよう命じた。刑に臨んで大声で「生きては直臣であった。死んでは直鬼となろう」と叫び、ついに殺された。
  • 後日、帝は悔いて侍臣に「周新はどこの者か」と問い、「南海です」と答えると、帝は嘆じて「嶺外にこのような人がいたのか。誤って殺してしまった」と言った。のち帝は、緋衣の人が日中に立って「臣周新はすでに神となり、陛下のために奸貪の吏を治めております」と言うのを見たようだったという。のち紀綱が罪によって誅されると、事の真相はいっそう明らかになった。
  • 新の妻には節操があった。新が世に出ないころは縫い物で暮らしを立て、貴顕となってからも、たまたま同僚の妻たちの内々の宴に出たときには、荊の簪に木綿の衣で田舎の女のようであったので、諸夫人は恥じて衣飾をすべて改めた。新には子がなく、死後、妻の暮らしはたいそう貧しかった。廣東廵撫の楊信民は「周志新は当代第一の人物である。その夫人を一日中飢えさせておけようか」と言い、たびたび援助した。妻が没したとき、廣東に仕えていた浙江出身の官はみな集まって葬った。