出自と御史時代の直言
- 張鵬は字を騰霄といい、淶水の人。景㤗二年(1451年)の進士。御史を授けられ、上疏して述べた。「利を懐いて君に仕えるのは人臣の戒めるところです。近ごろ聖節のたびに羊馬や錦綺を進献し、殿廷に入り乱れております。貪って賄賂を取るのでなければ、どこに進奉に充てる余財がありましょう。まして陛下は四海を有し、これによって国を富ますわけでもありません。すべて停止して、諂諛と奔競の道をふさぐべきです」。疏は全部で四か条あり、帝はかなり採用した。
- 大同・宣府を按察に出て奏上した。「両鎮の軍士は衣は破れ食は乏しく、病んでも薬がなく、死んでも棺がありません。官が医薬と棺を給し、義塚を設けて厲祭を受けさせてください。死者が恩を蒙れば、生者も励みます」。帝はただちに認め、諸辺すべてに行うよう命じた。また淮揚の徴賦を停止し、牛と種を給することを奏請した。
石亨弾劾と流謫、復活
- 天順元年(1457年)、同僚の楊瑄が石亨と曹吉祥を弾劾したとき、鵬も劉泰・魏瀚・康驥とともに論劾し、そろって罪を得て詔獄に下された。御史の多くは左遷にとどまったが、鵬と瑄は遼東に流された。ほどなく赦免されたが、また南丹に流された。
- 憲宗が立つと廷臣が相次いで推薦し、召されて旧官に復し、まもなく福建按察使に飛び越えて抜擢された。成化四年(1468年)、右僉都御史として廣西を巡撫し、蠻寇の討伐に功があった。その冬、巡撫の官が廃されたので、南京都察院の事務に戻るよう命じられ、漕運の督察に改められ、あわせて淮揚四府を巡撫した。まもなく漕務を解かれて巡撫に専念し、また南京に戻って副都御史に進み、寧夏を巡撫した。召還されて兵部左侍郎・右侍郎を歴任した。
兵部尚書と晩年の消極
- 成化十八年(1482年)、陳鉞に代わって兵部尚書となった。珠池を守る宦官の韋助が高州・肇慶・瓊州・廉州を往来し、守巡官と合同で寇を捕らえたいと願い出たとき、鵬は反対したが、帝は結局これを許した。南北の印馬にはおおむね勲臣と内侍を遣わしていたが、のちに災害のため御史だけを遣わすこととなった。この年、帝は再び内侍を遣わそうとし、鵬らが反対したので、帝はしぶしぶ従い、以後は従来どおりにせよと命じた。
- 大同鎮守の中官である汪直が「小王子が大挙して来る」と述べ、京兵の派遣を請うたとき、鵬らは「大同の士馬は四万あって十分です。請いを許すべきではありません。まして京軍は営造に疲れ、精力が衰えております。急なことがあれば何をもって威を振るいましょう。その役をすべて停止してください」と述べ、詔によって認められた。まもなく太子少保を加えられた。
- 鵬ははじめ御史であったころは剛直で気節を尊び、盛名があったが、のち中外を歴任してからはひたすら事なかれに終始した。小人が権柄をほしいままにし、閣臣の萬安・劉吉らが私利を営んでも、鵬は職務をこなすだけで、正すことができなかった。
- 成化二十一年(1485年)、星変に際して鵬は僚属とともに、伝奉によって武職を得た者が八百余人に及ぶので、すべて閑職に退け、軍功によらぬ濫授をやめるよう、また四方の鎮守・監槍・守備の内官のうち正統年間に元から置かれていた者以外はすべて召還するよう述べた。廷臣も相次いでこれを請い、兵部に下して再審させたが、鵬は中官を恐れて議を貫かなかったので、帝はすべて留任させた。当時の世論はみな鵬を咎めた。
- 奸民の章瑾が珍宝を献じて錦衣鎮撫となり、理刑の欠員が出たとき、鵬の上申は認められなかったが、帝の意が瑾にあると知って、そのまま瑾を推挙した。臺諫が職務にふさわしくない大臣を弾劾するとき、鵬に及ぶことが多かったので、鵬は強く辞職を求め、ついに敕を賜わり駅伝を給されて帰郷した。𢎞治四年(1491年)に没し、懿簡と諡された。