出自と吉安知府
- 張瑄は字を廷璽といい、江浦の人。正統七年(1442年)の進士。刑部主事を授けられ、郎中を歴任して有能の声があった。景泰のとき、敕を賜わって吉安知府となった。その地の習俗は巫を尊び、休みなく神を迎えていたが、瑄は道でこれに出会うと神像を水に投げ込んだ。まもなく重い病にかかり、父老はみな神の祟りだと言って復置を請うたが、瑄は怒って許さず、病もまた癒えた。大飢饉の年には上官に書状を出したが、返答を待たずに倉を開いて振貸した。
広東・福建・河南の巡撫
- 八年在職ののち、推薦によって廣東右布政使に抜擢された。廣西の賊である莫文章らが境を越えて連山を陥れたので、瑄は撃って斬り、また陽山の賊の周公轉、新興の賊の鄧李保らを破った。その後、大藤峽の賊がしきりに属邑を陥れたため、瑄は停俸となった。成化の初め、韓雍が賊を平定した際、瑄の兵糧輸送の労を記録して銀と幣を賜わり、俸も元どおりとした。
- 瑄は管内を巡行して予備倉六十二か所の建設を督し、陂塘と圩岸四千六百を修め、広州・新㑹などの城垣一十二を増築した。民は瑄の徳を慕い、その離任を恐れた。左布政使に転じ、九年の任期満了で上京すべきときになると、軍民がそろって留任を乞い、巡撫の陳濓らがこれを請うたので、そのまま元の任にとどまった。
- 成化八年(1472年)、ようやく右副都御史として福建を巡撫し、賊の林夀六・魏懐三らを平定した。福安・夀寧の諸県は江浙に隣接し、賊首の葉旺・葉春らが険阻に拠っていたが、瑄は捕らえて誅し、残りはすべて解散した。帝は敕を降してねぎらった。
- 河南の巡撫に改められた。議事のため入都したとき、流民の慰撫と埋もれた人材の登用など十八か条を陳べ、担当官庁の多くが実行を議した。黄河が氾濫すると、瑄は救恤を請い、あわせて王府の禄米を他所に移し、榆林へ輸送すべき糧餉を留めて荒政に充て、石あたり八銭で買い上げて榆林に輸送することとし、民は便利とした。
- 戻って院の事務を執り、まもなく南京刑部侍郎に遷り、久しくして尚書に進んだ。成化二十年(1484年)、星変によって弾劾されたが帝は問わなかった。三年後、給事中と御史が再び弾劾し、ついに免職となった。孝宗が立つと復官して致仕した。