出自と王振一党との対立
- 羅綺は磁州の人。宣徳五年(1430年)の進士。英宗が即位すると御史を授けられ、直隸・福建を按察して有能の名があった。
- 正統九年(1444年)、寧夏の軍務に參贊した。一年余りで交代の時期になると、軍民が鎮守都御史の陳鎰のもとに来て留任を乞い、上申されて再任が命じられた。まもなく大理右寺丞に抜擢され、參贊はそのままであった。かつて事件に絡んで指揮の任信と陳斌を弾劾したが、二人はいずれも王振の一党であった。
- 正統十一年(1446年)四月、任信と陳斌が綺の不法を訴え出た。總兵官の黄真に再調査させたところ、真は「綺はつねに宦官を老奴と罵っている」と述べて王振を怒らせた。京に召還され、法司は贖罪と量定したが、王振は改めて錦衣衛に再訊問させ、指揮同知の馬順が罪を作り上げて遼東への流謫となった。
四川鎮守と獄死
- 景帝が立つと綺は冤を訴えたが聴かれなかった。まもなく尚書の于謙・金濓の推薦によって召されて復官し、右少卿に進み、李實の副使として衛拉特に赴き上皇を還らせ、その労によって刑部左侍郎に抜擢された。
- 翌年二月、雲南・四川の軍儲の督察に出、のち寇深に代わって松潘を鎮守した。賊の首領の卓勞が他の砦の阿兒結らを糾合してしきりに寇したので、綺はこれを捕らえて斬った。土官の王永・髙茂林・董敏が互いに仇殺して守将が制御できなかったときは、綺は永の巣を突いて誅した。また黒虎の諸塞の番族を破り、三百五十の首級を挙げた。鎮に在ること七年、威名は大いに震った。
- 天順の初め、召されて左副都御史となり、功によって二品の禄を賜わった。御史の張鵬・楊瑄が石亨を弾劾すると、石亨は綺と右都御史の耿九疇がそそのかしたのだと言い、ともに下獄して広東參政に降された。綺は不満で赴任しなかった。
- 翌年閏二月、綺の同郷人が「磁州同知の龍約が京から帰って綺に『天子はなお宦官を寵愛し、香木を刻んで王振の像を作り葬った』と語ったところ、綺は微笑して『朝廷が政を失ったからわれらは降黜されたのだ』と言った」と告発した。奏上されて綺は捕らえられ吏に下され、死罪とされて家財を没収された。没収した財貨は文華門に並べて百官に示され、家属は辺境に流され、婦女は浣衣局に没入された。憲宗が立つと赦されて民とされ、資産も返された。
- 綺と前後して四川を鎮守した張固は、字を公正といい、新喻の人。宣徳八年(1433年)の進士。正統の初めに刑科給事中を授けられ、吏科に改められ、命を受けて裕州の流民を慰撫した。景泰改元の年、給事中の李實が四川行都司に鎮守大臣を置くよう請うたので、固を大理右少卿に遷して建昌を鎮守させ、政績があった。景泰三年(1452年)に戻って寺の事務を執った。山東で盗が起こると命を受けて督捕にあたったが、ちょうど長雨の災害で流人が道にあふれていたので、固は心を尽くして救恤し、盗賊は消え散った。帰って在官のまま没した。
- 固は諫職にあって直言をはばからず、大臣の多くが弾劾を受けた。また都御史の陳鎰らが掾吏出身の属官を知府に推挙したことを弾劾し、これ以降、掾吏は知府を歴任できないこととされ、例として定められた。英宗が北征しようとしたときには同僚とともに疏を上げて諫めたので、復辟後に思い出されたが、すでに没していたため、使者を遣わして祭を諭し、一子を官に任じた。子の黼は広西按察使に至った。