明史卷一百六十 列傳第四十八 金濓

出自と地方官・辺務

  • 金濓は字を宗瀚といい、山陽の人。永樂十六年(1418年)の進士で御史を授けられた。宣徳の初め、廣東を巡按して清廉有能ぶりが第一と評された。江西・浙江の按察に移ったが、大盗を捕らえられず罷免され、盗が捕らえられて復官した。
  • かつて「郡県の吏は貪濁であるから、按察司と巡按御史に命じて清廉有能な者を調べさせ、洪武年間の故事のとおり使者を遣わして慰労・賞賜すれば、清濁が分かれ、良吏が励むでしょう」と述べ、帝はこれを嘉納した。
  • 推薦により陝西副使に遷った。正統元年(1436年)、衛所の欠員補充、寧夏の守兵増強、漢中への鎮守都指揮使設置を上書し、多くが議のうえ実行された。
  • 正統三年(1438年)、僉都御史に抜擢され、寧夏の軍務に參贊した。濓は計数に明るく企画に長け、西の辺境は平穏であった。寧夏には古くから五つの渠があったが、鳴沙洲・七星・漢伯・石灰の三渠が埋まっていたので、濓は浚渫を請い、荒地一千三百余頃を灌漑した。当時、富民が辺境に米を輸送して千石以上に達すれば璽書で褒めるという詔があったが、濂は辺地では粟が高価だとして、額に達しない者もあわせて表彰するよう請い、これによって備蓄が充実した。
  • 正統六年(1441年)、僉都御史と盧睿が交代で勤務する詔が下り、翌年に睿が召還されて濓が再び出鎮し、まもなく右副都御史を加えられ、睿と交代することが二度に及んだ。

刑部・福建の乱

  • 正統八年(1443年)秋、刑部尚書を拝し、経筵に侍した。正統十一年(1446年)、安鄉伯張安が弟と禄を争って逮捕・処断の詔が下ったとき、法司と戸部が互いに責任を押しつけあったため、言官が濓と戸部尚書の王佐、右都御史の陳鎰、侍郎の丁鉉・馬昻、副都御史の丁璿・程富らを弾劾し、いずれも下獄したが、数日で釈放された。
  • 福建の賊である鄧茂七らが乱を起こし、都督の劉聚と都御史の張楷が討ったが勝てなかった。正統十三年(1448年)十一月、大挙して兵を発し、寧陽侯の陳懋らを将軍として討たせ、濓を軍務参与とした。到着したときにはすでに御史の丁瑄が賊を大破し、茂七は死んでいた。残党は茂七の兄の子の伯孫を擁して九龍山に拠り官軍に抗した。濓は衆と謀り、弱兵で誘い出して精兵を伏せて塁に入れ、伯孫を捕らえた。帝は張楷を浙江の寇の討伐に移し、濓を留めて残る賊を平定させた。英宗の北狩によって兵事が切迫したため召還された。言官は濓に功がないと相次いで弾劾したが、景帝は問わず、太子賔客を加え、俸を二重に給した。

戸部と免租事件

  • まもなく戸部尚書に改められ、太子太保に進んだ。当時、四方で用兵があって糧餉が急を要したが、濓は綿密に集計して漏れがなく、節約と便宜の十六か条を上申し、国用は不足しなかった。ほどなく上皇(英宗)が帰還すると、額森は以前どおり使者を往来させたいと請うたが、帝はかたくなに拒んだ。濓は二度上疏して諫めたが聴かれなかった。
  • 当初、帝は即位のとき景泰二年(1451年)分の天下の租の十分の三を免ずる詔を下した。ところが濓は有司に檄を発し、減じるのは米麥のみとし、銀・布・絲帛に折納する分は従来どおり徴収させた。景泰三年(1452年)二月、学士の江淵がこれを問題にし、部に調査を命じた。濓は内心恥じて事実を否認したが、給事中の李侃らが詔に違反した天下の有司を糾問するよう請うたので、濓は露見を恐れ、「銀・布・絲帛は詔書に載っておらず、一律に減免すれば国用が立ちゆかない」と弁明した。そこで給事中と御史は、濓が民に信を失い、国のために怨みを買ったと弾劾し、さらにその秘事を暴いた。帝は赦そうとしたが、李侃と御史の王允が強く争ったため、都察院の獄に下された。三日後に釈放され、宮保(太子太保)を削られて工部に移された。
  • 吏部尚書の何文淵が「理財は濓でなければできない」と述べたので、戸部に戻された。濓は上疏して自ら弁明し、そのまま辞職を願ったが、帝は慰留した。東宮が立てられると宮保を回復した。まもなく、軍匠および僧道の徒食を節減する件など十か条を条陳した。
  • 景泰五年(1454年)、在官のまま没した。軍功によって沭陽伯を追封され、榮襄と諡された。濓は剛毅果断で実行力があり、赴任先ではきびきびと事を処理すると評されたが、部下への接し方には激しい怒りが多かった。刑部では法の適用がやや厳しく、戸部では兵事による財政難に際して、かなり重く取り立てて国用を満たしたという。