出自と江西の名裁判
- 石璞は字を仲玉といい、臨漳の人。永樂九年(1411年)に郷試に合格して国学に入り、選ばれて御史を授けられた。正統の初め、江西按察司の職を歴任し、正統三年(1438年)に囚人を逃したことで副使に降格された。
- 璞は疑獄の裁断に長けていた。ある民が嫁を迎えて三日目に里帰りさせたところ、その嫁が行方不明になり、嫁の父が婿を娘殺しで訴え、婿は誣告のまま自白して死罪となった。璞が神に祈ったところ、夢で「麥」の字を示された。璞は「麥とは二人が一人を挟む形だ」と考えた。夜明けに囚人に械をつけて刑の執行を急がせたが、まだ出発しないうちに、一人の童子が門の陰からのぞいていたので捕らえて調べると、道士の弟子であった。「師がお前に様子を探らせたのか」と叱ると、童子は事実を白状した。はたして二人の道士が麥藁の中に嫁を隠していたので、捕らえて法どおりに処断した。江西にいた数年、綱紀は引き締まり、婦人や子どもまで「石憲使」を知らぬ者はなかった。
山西・工部と葉宗留の乱
- 正統七年(1442年)、山西布政使に遷った。翌年、朝廷の年々の用度の物料を有司が割り当てて民を煩わせているとして、折糧銀のうち毎年千両を留め置き、官が買い調えるようにすれば、官用も足り民も煩わされないと請い、認められた。
- 正統十三年(1448年)、工部尚書の王卺が王振に迎合できずに致仕したため、王振と親しかった璞が召されて尚書となった。翌年、處州の賊である葉宗留が乱を起こし、總兵官の徐恭らが討伐に向かい、璞がその軍事に参与した。軍が到着する前に宗留はすでに一味の陳鑑胡に殺されており、巡撫の張驥が鑑胡を招降したので勢いは衰えた。璞らは進軍を遅らせて功がなかったとして御史の張洪らに弾劾されたが、詔によって軍の凱旋後に報告することとされた。
景泰期の軍務と治水
- やがて景帝が即位すると召還され、功を論じて大理寺卿を兼ねた。まもなく天下に義勇兵を募りに出た。帰朝したとき、たまたま宦官の金英が下獄し、法司が璞は以前に金英へ賄賂を贈ったと弾劾したので、璞もあわせて下獄したが、判決にあたって特に赦された。
- 大同の軍餉を処理しに出、敵が馬營を犯すと宣府軍務の提督を命じられたが、到着したときには寇はすでに退いていた。帰って部の事務を処理し、太子太保を加えられ、俸を二重に給された。
- 黄河が沙灣で決壊し、その修治を命じられた。璞は決口をふさぐのは容易でないと考え、別に黒洋山から徐州に至る渠を浚渫して漕船を通したが、決口はそのままであった。そこで内官の黎賢らと御史の彭誼を補佐に加え、沙灣に石堤を築いて決壊した流れを防ぎ、䦕月河を掘って水を運河に導き、水勢を殺いで、ようやく決口をふさいだ。
- 璞は帰って上申した。「京師の盗賊は軍伍の出身者が多く、捕らえられた者は決まって『糧餉が減らされ、妻子が飢えて凍えるからだ』と言います。また両畿・山東・河南は災害を受け、窮民の多くが略奪を働いています。いま慰撫しなければ、将来の憂いは辺患よりも甚だしくなりましょう。口外の守軍は夜に行き昼に潜み、艱苦は言うに尽くせません。辺境がまだ安んじない今は、糧餉を増やして士気を奮い立たせるべきなのに、かえって月糧を減らしています。これこそ盗を招き国を誤る端緒であって、財を節して用を足す方策ではありません」。帝はその言を深く容れた。
- 沙灣が再び決壊し、璞は重ねて治水に向かった。母の喪で帰り、起復した。
- 景泰六年(1455年)、兵部尚書に改められ、于謙とともに部の事務を管理した。翌年、湖廣の苗が乱を起こすと、璞に軍務総督を命じ、南和伯の方瑛とともに討たせた。順天元年、捷報が届いて召還され、致仕を命じられた。その後、功を論じて鈔と幣を賜わった。
- 天順四年(1460年)冬、李賢の推薦によって南京左都御史に召された。当時、璞はすでに老いて目が見えず、職務に堪えなかった。天順七年(1463年)、錦衣衞指揮僉事の門達に弾劾されて罷免され帰郷し、没した。
- 王卺は郿の人。永樂年間に郷薦を受け、山東左布政使を歴任し、赴任先ごとに恵政があった。正統六年(1441年)に入って工部侍郎となり、吳中に代わって尚書となった。帰郷し、正統十五年(1450年)に没した。