出自と文選郎中
- 黄孔昭は黄巖の人。初めの名を曜といい、後に字で通り、字を世顯と改めた。十四歳で父母の喪に遭い、悲しみのあまり骨と皮になった。天順四年(1460年)の進士で、屯田主事を授かった。江南に使いして贈り物を却けて受けなかった。都水員外郎に進んだ。
- 成化五年(1469年)、文選郎中の陳雲らが吏に告発されてみな下獄・貶官となった。尚書の姚蘷は孔昭の廉を知って文選に移した。九年(1473年)、郎中に進んだ。
人材の登用
- 慣例では選郎は門を閉ざして客を謝絶した。孔昭は「国家が才を用いるのは、富家が粟を積むのと同じだ。粟を日ごろ積まなければ、どうして飢えを賄えよう。才を予め蓄えなければ、どうして用に応じられよう。もし奥に籠って客を絶つのを高しとすれば、何によって天下の才俊を知るのか」と言い、退庁後に客が来れば招き入れて会い、人材を尋ねて冊に書き付けた。官を除するときは、その才の高下に応じて任地の繁簡を配したので、銓叙が公平妥当となった。私事で頼む者はみな拒んだ。
- かつて尚書の尹旻と争い、机を押しやるほどの怒りに至ったが、孔昭は手を拱いて立ち、その怒りが止むのを待ってまた説いた。旻もその誠実・剛直を信じた。
- 旻が通政の談倫を寵愛して侍郎に用いようとしたとき、孔昭は不可と主張したが、旻はついに用い、倫は果たして失敗した。旻が旧友を巡撫に推そうとしたときも孔昭は応じなかった。その人が都に入って孔昭に会い、膝を屈するほど卑屈だったので、孔昭はいよいよこれを軽んじた。旻が推挙を命じると、孔昭は「彼に欠けているのは大臣の器量です」と言った。旻はその人に「黄君が銓曹を離れぬかぎり、君は昇進できまい」と言った。
南京工部侍郎と最期
- 郎中となって九年の考満を経て、ようやく右通政に抜擢された。久しくして南京工部右侍郎に遷った。官有地十余区が権勢家に侵されていたので、奏して回復した。
- 詔を奉じて地方長官を推薦したときは、知府の樊瑩、僉事の章懋をもって応じ、二人は後にみな名臣となった。
- 蔵を掌る郎官が余った銀数千を差し出したが、退けた。地を掘って古い鼎を得ると、急いで工人に「文廟」の二字を刻ませて廟中に納めた。ほどなく宦官が朝廷に献じようとしたが、刻字を見てやめた。
- 孔昭は学を嗜み行いに篤く、陳選・林鶚・謝鐸と親しく、ともに士人の宗と仰がれた。𢎞治四年(1491年)に卒した。嘉靖年間に禮部尚書を贈られ、諡は文毅。
- 子の俌もまた進士に挙げられて文選郎中となり、俌の子の綰は大礼の議によって禮部尚書に至り、別に伝がある。
史論
- 贊に言う。国家の盛時に士大夫の多くが廉節をもって自らを重んじたのは、意図して行いを励まし、矯飾の名誉を好んだからであろうか。そうではなく、嗜欲に淡く、利を営み地位を競うことを恥じる、その孤高の性ゆえである。
- 仁宗・宣宗のころ、吏の道の貪汚を懲らして公平廉潔・剛正の士を登用した。宗載が銓衡を佐け、顧佐が国の法憲を掌って、風紀は一新した。段民・吳訥・魏驥・魯穆は清らかに羔羊素絲の節を守り、軒輗・耿九疇・黄孔昭は俗を絶して身を励まし、物欲が犯すことができなかった。尚敞・徐琦・劉戩は自らを律すること厳正で、異域までもが心を傾けた。廉が尚ぶに足ることは、まことに卓越している。