明史卷一百五十九 列傳 熊概・陳鎰・李儀・陳泰・李棠・賈銓・王宇・崔恭・劉孜・李侃・原傑・彭誼・牟俸・夏壎・高明・楊繼宗
熊概――出自と廣西按察使
- 熊概は字を元節といい、豐城の人。幼くして父を失い、母に従って胡氏に嫁いだのでその姓を名乗っていた。永樂九年(1411年)の進士で、御史を授かった。
- 十六年(1418年)、廣西按察使に抜擢された。峒谿の蛮が大挙して掠奪に出ると、布政使は靖江王の兵を請うて食い止めようと議した。概は不可として「我らは方面の任にあり、寇が来ても防げず、かえって王を煩わすのか。しかも寇は必ず来ない」と言い、戒厳するだけにとどめた。果たしてそのとおりだった。久しくして廣東に転じた。
熊概――巡撫の始まり
- 洪熙元年(1425年)正月、原官のまま布政使の周幹、參政の葉春とともに南畿・浙江を巡視するよう命ぜられた。もともと夏原吉が江南の水を治めて帰った後、左通政の趙居任が代わって農務を兼督したが、居任は民を恤まず、毎年豊作だと報告した。成祖もその偽りを知っていた。居任が卒すると左通政の岳福が継いだが、凡庸軟弱で何もしなかった。仁宗が監國のとき、かつて概に御史のまま刑部を代行させてその賢を知っていたので、この命があった。
- この年八月、幹が帰って「有司には人を得ていない者が多く、土豪が悪を恣にしており、福は職に堪えません」と言った。宣宗は福を召し還し、概を大理寺卿に抜擢して春とともに赴かせ、南畿・浙江を巡撫させた。巡撫の設置はここに始まる。
熊概――浙西の豪族の粛清
- 浙西の豪族が郡県の弱みを握って不法を働いていた。海鹽の民である平康は横暴が甚だしく、御史が捕らえようとすると逃げ、赦に会って帰るといよいよ徒党八百余人を集めた。概はこれを捕らえて誅した。ついで豪悪数十輩をことごとく捕らえ、械送して京に送り法どおりに処断したので、奸悪は鎮まった。
- 諸衛所への糧の輸送が続かず軍が食に乏しくなると、概は便宜に諸府の贖罪米四萬二千余石を出して軍を養い、その後で朝廷に報告した。帝は喜び、戸部に「専擅の罪で概を罪してはならぬ」と諭した。
- 概は法の用い方が厳しく、姦民が憚って謗りの文書を朝廷に流した。宣徳二年(1427年)、行在の都御史が、概と春は至る所で威福を振るい兵を放って民を煩わせていると弾劾した。帝は取り合わず、ひそかに御史に調べさせたが何も出ず、これによっていよいよ概を信任した。翌年七月、璽書を賜って励ました。概も自信を得て、興し改めるべき事はみな列挙して奏聞した。
- 当時、しばしば部の官を江南に遣わして紙を造らせ銅鉄を買わせていた。概は水害で民が飢えているとして、その停止を乞うた。
熊概――都察院と最期
- 五年(1430年)に還朝し、はじめて本姓に復した。ほどなく右都御史に遷って南京都察院の事務を執った。行在の都御史である顧佐が病んだので、駅伝で概を召してその職を代領させ、あわせて刑部を代行させた。
- 九年(1434年)十月、囚の審査で朝から日暮れまで食事の暇もなく、突然めまいを起こして卒した。祭を賜り、舟を給してその喪を帰らせた。
- 概は性が剛毅果断で、江南を巡視して威名が甚だ盛んであったが、台憲を掌ってからは評判が初めより次第に落ちた。
葉春――三たび浙西に臨む
- 葉春は海鹽の人。掾吏から身を起こし、禮部郎中・兩淮鹽運使を歴任し、四川右參政に改まって、概とともに江浙の諸府を巡撫した。
- その後さらに命を奉じて錦衣指揮の任啟、御史の賴英、太監の劉寧とともに巡視し、前後三度にわたって浙西に臨んだ。事務を処理して、郷里の人にもその私曲を云々する者がなかった。
- 概が都御史に遷ると、春も同じ日に刑部右侍郎に進み、在官のまま卒した。
陳鎰――出自と陝西鎮守
- 陳鎰は字を有戒といい、吳縣の人。永樂十年(1412年)の進士で、御史を授かった。湖廣副使に遷り、山東・浙江を歴任していずれも名声があった。
- 英宗即位の三月(1435年)、右副都御史に抜擢され、都督同知の鄭銘とともに陝西を鎮守した。北方の飢民の多くが食を求めて流れ移っていたので、鎰は大名を通ったときこれを見て、その状を疏陳し、詔して賊役を免じた。
- 正統改元(1436年)、鎰は陝西の用兵で民が供給に困窮しているとして、割り当てられた物料の徴収をすべて停止・免除するよう言い、詔して可とされた。
陳鎰――辺の備蓄と巡撫
- 翌年五月、労績によって敕を下されて励まされ、あわせて延綏・寧夏の辺を巡るよう命ぜられた。至る所で軍民の便宜を条奏し、廃止・設置するところが多かった。管内の六府が飢えると倉を開いて賑わすよう請うた。帝が輔臣の請いに従って荒政を修めたとき、鎰はこれを各辺にもあまねく行うよう請い、これによって塞上はみな備蓄を持つようになった。
- 六年(1441年)春、鎰が久しく外で労したので、王翺と一年交代とするよう命ぜられた。七年(1442年)、翺が遼東に転じ、鎰がまた出鎮した。任期が満ちて交代すべきとき、陝西の人が留任を乞い、詔して旧任のままとされた。
- 当時、倉の備蓄が満ち溢れ、軍衛のある所では十年、ない所では百年も支えられるほどであった。鎰は腐って棄てるのが惜しいとして、毎年春夏に官軍への月々の俸給として支給し、鈔に折り替えないよう請い、従われた。
- 九年(1444年)春、右都御史に進み、鎮守は元のまま。秦中が飢えたので租の十分の四を免じ、残りは米と布を併せて収めるよう乞うた。
陳鎰――辺務と流民の予見
- 当時、衛拉特の額森が次第に強くなり、人を遣わして罕東の諸衛の都督である能格らに平章の位を授け、また甘肅行省の名号を置いた。鎰はこれを奏聞し、厳重な備えを請うた。ついで靖遠伯の王驥とともに甘肅・寧夏・延綏の辺務を巡視し、便宜に処置することを許された。災害が頻発したので、軍民を撫安する二十四件を条上し、多くが議して実行された。
- 鎰はかつて襄・漢の間の流民が集まって乱をなすことを恐れ、河南・湖廣・陝西の三司の官が自らその地に赴いて撫恤するよう請うた。旨を得て許されたが、当事者は意に介さなかった。王文も相次いで有司の怠慢を力説し、禍を残すことを恐れた。成化のときになって項忠の役があり、人はいよいよ鎰の言を思った。
陳鎰――三たびの陝西鎮守と晩年
- 英宗が北狩して景帝が監國すると、鎰は大臣を合わせて廷議で王振を論じ、ここに振の甥の王山が誅された。額森が侵入しようとすると、于謙の推薦で畿内を撫するために出、事が鎮まると召還されて左都御史に進んだ。
- 景泰二年(1451年)、陝西が飢え、軍民一萬余人が「陳公を得て我らを活かしてほしい」と願った。監司が奏聞し、帝はまた鎰に命じた。鎰はこれで三度陝西を鎮し、前後十余年になった。陝西の人は父母のように慕い、帰朝するたびに必ず道をふさいで車に取りすがって泣き、再び来るときは数百里にわたって歓迎が絶えなかった。軍民の心を得たことでは、前後に陝西を撫した者の及ぶ者がなかった。
- 三年(1452年)春、召還されて太子太保を加えられ、王文とともに都察院を掌った。文は威厳があり諸御史は神のように畏れたが、鎰は寛恕な性で気骨に乏しく、名声は陝西にいたころより落ちた。
- 翌年秋、病により致仕し、卒した。太保を贈られ、諡は僖敏。天順七年(1463年)、詔してその子の伸を刑部照磨に任じた。
李儀――趙王の護衛と九江知府
- 李儀は涿の人。永樂年間、推薦によって戸部主事を授かった。宣宗が高煦を平らげると、儀は趙王の護衛を削るよう請うた。尚書の張本も「先年、孟賢が謀反したとき趙王が知らなかったとは限らない。高煦も趙と共謀したと言っている。儀の言は正しい」と言ったが、帝は聴かなかった。やがて言う者が増えたので、帝はその文言を封じ、使者を遣わして儀の趣旨のとおり王に諭した。王はただちに護衛を献じ、趙はついに事なきを得た。
- 儀はまもなく九江府知府として出、恵政があった。
李儀――大同宣府の巡撫と獄死
- 英宗即位の年、はじめて諸辺に巡撫が置かれた。僉都御史の丁璿がちょうど大同・宣府の軍需を督していたが、儀は右僉都御史としてその地を巡撫し、盛んに施策を行った。
- 翌年、大同の東西二路を分けて總兵官の羅文・方政に責任を負わせるよう請い、従われた。
- 当時、朝議は方政・楊洪を塞外に出し、甘肅の将である蔣貴・史昭と合わせて多爾濟巴勒を撃とうとした。儀は「四方の異民族が患をなすのは古来のことで、要は備えと防御に方策があるかどうかだ。和寧の残部は窮して帰る所がなく、あるときは臣従しあるときは叛き、小規模に辺を寇するにすぎない。辺将が慎重に対処すればおのずと逃げ去る。何を好んで深追いするのか。万一、虚に乗じて我を襲い、少しでも失敗があれば、まさに笑い物になる」と言い、政らに深追いさせぬよう敕することを乞うたが、容れられなかった。
- 糧を督する參政の劉璉が職に堪えず、儀が弾劾した。璉はそこで儀に淫乱の事があると誣告した。折しも參將の石亨が鎮守中官である郭敬の罪を奏そうとして、まず儀に諮問した。儀は誤ってその諮問の文書を、兵糧を調べる主事の文書の中に封じ込めてしまい、戸部が奏聞したため、亨と敬が互いに暴き合うことになった。詔して儀と璉に自ら陳述させ、敬らを厳しく責めた。璉は俸を二年停められただけであった。儀は罪を引きながらもその正しさを自負し、言葉がかなり激しかったため、弾劾されて獄吏に下され、獄死した。正統二年(1437年)二月のことである。
- 儀は官にあって廉潔・謹直で、辺の人が日ごろその徳を慕っていたので、その死を聞いて昭徳祠を建てて祀った。
丁璿――麓川の軍需と雲南巡撫
- 丁璿は上元の人。永樂年間の進士で、御史からこの職に抜擢された。正統五年(1440年)、麓川征討にあたり、伝馬で赴いて兵糧の備えをするよう命ぜられた。ついで用兵の便宜を言上し、そこで雲南を撫するよう命ぜられた。麓川が平定されると左副都御史に召された。至る所で名声があった。
陳泰――出自と三たびの巡按
- 陳泰は字を吉亨といい、光澤の人。幼くして母方の曹姓に従い、貴顕となってから旧姓に復した。鄉試に第一で合格し、安慶府學訓導を授かった。正統の初め、廷臣が相次いで推薦して御史に抜擢された。
- 貴州を巡按したとき、官軍が麓川を征するにあたって毎年、土兵二千を取って道案内とし、戦いが不利になるとすぐ殺して功を偽っていた。泰が奏して止めさせた。
- 再び山西を按じた。当時、百官の俸は薄く、鈔に折り替えられたうえ、すぐには受け取れなかった。泰は上章して「禄と廩を適度に増して廉潔を養うに足るようにし、そのうえで贓汚を治めれば、貪風はおのずと止む」と乞うたが、事は阻まれて行われなかった。
- 六年(1441年)夏、「連年の災異の咎は廷臣にある。御史・給事中に大臣を糾弾させ、とりわけ職に堪えぬ者を除き、そのうえで各担当官がその属僚を考課するよう敕されたい」と言い、帝は従った。そこで御史の馬謹らが相次いで章を上げ、吏部尚書の郭璡ら数十人を弾劾した。
- ついでまた山東を按じた。泰は日ごろ操行を励み、攻撃を好み、三度巡按となって奸を懲らし貪を除き、威厳が甚だ峻厳であった。
陳泰――下獄と河道の修治
- 九年(1444年)、四川按察使に飛び越えて抜擢されたが、鎮守都御史の寇深と仲違いした。十二年(1447年)八月、參議の陳敏が深の意を汲んで、泰がほしいままに武官を杖し、輿夫を殴って死なせたと弾劾し、刑部の獄に逮えられて斬に当てられた。泰が奏して弁じ、大理卿の俞士恱も状を具えて奏聞したが、いずれも聴かれなかった。
- 景帝が監國すると赦されて復官した。于謙の推薦で紫荆関を守ったが、額森が侵入して関門を守りきれず、また死罪に論ぜられた。景帝はまた宥し、罪を負ったままの官として總兵官の顧興祖に従って関隘を築かせ、泰は自ら弾劾した。
- 景泰元年(1450年)、大理寺少卿に抜擢され、白羊口を守備した。四月、都督同知の劉安が寧遠伯の任禮に代わって涿・易・真・保の諸城を巡り備えることになり、泰に右僉都御史としてその軍務に参ずるよう命じた。
- 三年(1452年)、保定六府の巡撫を兼ねた。まもなく河道の修治を督するよう命ぜられ、儀真から淮安まで渠八十里を浚え、決壊口九か所を塞ぎ、壩三か所を築き、六萬人を役して数か月で完成した。
- 七年(1456年)、蘇州・松江の巡撫に移った。天順改元(1457年)、巡撫の官が廃止されて廣東副使に改まったが、喪により去った。四川で盗が起こると、泰がかつてその地に臨んで威名があったと言う者があり、旧官に復して巡撫に任じた。
- 八年(1464年)、右副都御史に進み、漕運を総督し淮・揚の諸府の巡撫を兼ねた。淮に臨むこと三年で政を辞して帰り、成化六年(1470年)に卒した。
李棠――刑部と廣西巡撫
- 李棠は字を宗楷といい、縉雲の人。宣徳五年(1430年)の進士で、刑部主事を授かり、尚書の魏源に器と認められた。金濂が源に代わり、剛厳をもって下を威圧したが、棠は是非を論じ、譴責されても動じなかったので、濂もまた器と認めた。員外郎に進み、南畿の囚を審査して平反するところが多かった。郎中に進んだ。
- 景帝が位を嗣ぐと本部の侍郎に飛び越えて抜擢され、まもなく廣西を巡撫して軍務を提督した。管内に寇が多かったが、棠が順次討ち平らげた。自らを正して下を統べ、令が行われ政が挙がった。
李棠――思明の獄と致仕
- 景泰三年(1452年)、思明の土知府である黄□が老い、その子の鈞が跡を嗣いだ。□の庶兄である黄□は、その子に□を殺させ、父子ともに殺してその家を滅ぼし、他の盗が乱を起こしたと届け出た。棠は右參政の曾翬、副使の劉仁宅に檄してこの事を調べさせた。翬らは□父子を誘い出して捕らえ、獄に下した。
- □は窮すると使者を京師に走らせ、上書して太子を廃し自分の子を立てるよう帝に請うた。帝は大いに喜び、ただちに□を都督同知に抜擢し、その子を獄から出した。この事の経緯は懐獻太子および土司の伝に記されている。
- 棠は黄□の獄を全うできず、鬱々として、しばしば疏して病を理由に帰郷した。嶺表の物を一つも持ち帰らず、清らかな節操によって世に顕れた。
曾翬――思明の獄と河南・山東の治
- 曾翬は字を時升といい、泰和の人。宣徳八年(1433年)の進士。秦府の永興王の葬儀を執り行い、有司の贈り物を却けた。刑部員外郎を歴任し、尚書の金濂に器と認められて奏牘を掌らされた。重い獄で諸郎中が決しかねると、いつも翬に委ねた。秦王が巡撫の陳鎰が妓を狎れたと訴えたときは、翬が調べて実情を得、藩府が大臣を誣告したと弾劾し、鎰の潔白が明らかになった。
- 正統十三年(1448年)、郎中に進み、何文淵の推薦で廣西右參政に抜擢された。李棠が翬および副使の劉仁宅に檄して黄□父子を調べさせたとき、□は人に千金を持たせて道中で賄い、かつ精兵で囲んで脅した。二人は偽って承諾し、やがて□を誘い出して捕らえ、獄に下した。棠が奏聞したが、まもなく□は上書によって都督同知に抜擢され、父子ともに出獄した。翬らは嘆息するばかりであった。
- まもなく喪により去り、服喪を終えて河南で起用された。軍籍整理の御史が軍を多く得ることを利として、しばしば民にまで及んで冤を生んでいたが、翬が弁じて釈した者が甚だ多かった。南陽など諸府に流民が多く、衆議は駆逐しようとして人心が動揺したが、翬は巡撫とともにこれを撫安した。
- 天順五年(1461年)、山東右布政使に遷った。民が開墾して賦のない田を、姦民が閑田だと指して外戚に献じ、部の使者が調べに来た。翬は「祖宗の制では、民が荒田を開墾すれば永く課税しないとある。どうしてこれを奪うのか」と言い、使者はその言のとおり奏して免れた。
- 成化の初め、河南の左布政使に転じた。飢饉の年、開封の積粟が多いのを見計らって平糶を奏請し、貧民はこれによって救われた。召されて刑部左侍郎に任ぜられ、なお従二品の俸を食んだ。まもなく浙江を巡視し、官吏を考察して職に堪えぬ者百余人を罷めるよう奏し、他の弊政も多く改めた。還朝して久しく、病と称して去った。
- 翬は操行が慎み深く、至る所で名声があった。帰ってからは暮らし向きが寂しく、役所に足を踏み入れなかった。郷人は賢とした。
賈銓――雲南の治績
- 賈銓は字を秉鈞といい、邯鄲の人。永樂末の進士。宣徳四年(1429年)、禮科給事中を授かり、しばしば審査・却下を行った。英宗が即位して大赦を行い、あわせて在京の重罪の囚を裁くよう命じ、多くを宥した。銓の請いにより、これを南京にも及ぼした。
- 任期が満ちて大理知府として出た。王驥が麓川を征したとき輸送に功があり、驥が推薦した。麓川が平定されると雲南左參政に抜擢されたが、なお知府の事務を執った。まもなく驥の言によって司の事務を執るために戻った。
- 正統十二年(1447年)、左布政使が欠け、軍民数萬人が銓の政績を讃え、參贊軍務の侍郎である侯璡らも疏して請うたので、銓はついに抜擢された。
- 土官十余部は毎年、馬を貢し差發銀を納めることになっており、海□の八府の民は毎年、食塩の代米と鈔を納めることになっていたが、景泰の初めまで滞納が積もって償えなかった。銓らが言上して免除させた。
- 治績が聞こえて誥を賜り旌表された。景泰七年(1456年)、九年の任期が満ちて入都すべきところ、軍民が留任を乞い、任地に還るよう命ぜられた。
賈銓――山東・河南の巡撫
- 天順四年(1460年)、梁楘らとともに政績が卓越しているとして挙げられた。戸部にはじめ尚書が欠け、王翺が銓を抜擢しようとした。帝が李賢に問うと、賢は「名は聞いていますが、まだ会ったことがありません」と答えた。このとき銓が朝覲に来たので、帝は賢に会わせ、賢が帰って「容貌が貧相です」と奏したため、右副都御史として山東を巡撫させた。
- まもなく河南の巡撫を兼ねた。山東が凶作のときは清軍御史の召還を請い、河南が飢えたときは課馬の徴発の停止を請い、いずれも許された。
- 成化の初め、左都御史の李秉が遼東で軍を督したので、銓を召して都察院の事務を代行させた。中官の唐慎らが荆襄の従軍から帰る途中、淮安知事の谷淵を杖で打ち殺した。慎が自ら奏して免罪を乞うと、銓はその罪を問うよう請うた。しかし慎らは司禮監に付され、法司にその従者を罪するよう命じただけであった。まもなく在官のまま卒し、諡は㳟靖。
- 銓は雲南での治績が一時の第一とされた。巡撫となってからは清静で自らを誇らず、吏民もこれに安んじた。
王宇――撫州知府と宣大の巡撫
- 王宇は字を仲宏といい、祥符の人。童子のころ日に万言を記憶し、巡撫侍郎の于謙が奇才とした。正統四年(1439年)の進士で、南京戸部主事を授かった。任期が満ちて郎中に転ずべきところ、吏部は宇の才を見込んで特に撫州知府に用いた。政をなすに簡素静穏でありながら強者を鋤き奸を遏め、厳然として犯しがたく、一府が大いに治まった。
- 天順元年(1457年)、担当官がその治績を上申し、詔して誥命を賜った。ほどなく山東右布政使に抜擢され、管内の飢民を撫恤するよう命ぜられた。
- 翌年、右副都御史に遷って宣府を巡撫した。中官の嚴順、都督の張林らが家人に飼料と糧を請け負わせていたので、宇が弾劾した。都御史の寇深がこれを弁護したので、帝は深を叱責した。
- まもなく大同の巡撫も兼ねた。石亨とその甥の彪が驕り高ぶり、大同は彼らの旧鎮地であったので徴発・搾取がとりわけ横暴であった。宇は抗議の疏を上げてその奸を論じ、法に処すよう乞うた。疏は行われなかったが、聞く者は敬い憚った。
- 兵糧を督する郎中の楊益が飼料を用意できず宇に弾劾されると、戸部がこれをかばった。宇はあわせて尚書の沈固らを弾劾し、みな罪を認めた。
- 喪に遭って起復し大理卿となった。固く辞したが許されなかった。宇は剛毅・清廉で至る所で盛名があり、大理にあっては平反が多かった。七年(1463年)に卒した。
崔㳟――萊州知府
- 崔㳟は字を克讓といい、廣宗の人。正統元年(1436年)の進士で、戸部主事を授かった。延綏の倉儲を治めて有能の声があり、楊溥の推薦で萊州知府に抜擢された。
- 内地から遼東に送る布はすべて郡の庫に貯えられ、年久しく朽ちて傷み、番をする者の多くが家を破っていた。㳟は別に屋三十楹を建てて貯え、毎年の輸送分を概算して余りを本府の軍餉に充てるよう請い、番をする者八百人を解き放った。
- 額森が京師を犯したとき、民兵数千を援軍に送った。廷議で臨清に城を築くこととなり役夫の徴発が檄せられたが、㳟は折しも春で民が食に乏しいとして、秋の実りを待つよう請うた。
- 府に六年在任し、萊の人は漢の楊震になぞらえた。
崔㳟――湖廣・江西の布政使
- 景泰年間、湖廣右布政使に飛び越えて遷った。諸司の供給はおおむね民から取っていたが、㳟は僚佐と約してことごとく廃した。公安・監利の流民がほしいままに殺し合ったとき、㳟は「附籍を願う者は許し、そうでなければ秋を待って帰す」と令を下し、衆はそこで鎮まった。
- まもなく江西左布政使に遷った。司に廣濟庫があり、官吏が五十萬を着服していた。㳟が巡撫の韓雍に申告し、管理していた者はみな罪を得た。均徭の法を定め、軽重を酌んで十年に一度役するようにし、そのまま定例となった。
- 天順二年(1458年)、寧王奠培が不法を働いたので㳟が弾劾し、その護衛を削り、王はやや慎むようになった。
崔㳟――蘇松巡撫と水利
- 右副都御史に遷り、李秉に代わって蘇州・松江の諸府を巡撫した。管内を巡って耆老を招き利害を述べさせ、興し改めるべきことを行った。都督の徐㳟とともに儀真の漕河を浚え、また常州・鎮江の河を浚えて長江の険を避けた。
- ついで吳淞江を大いに治め、崑山の夏界口から上海の白鶴江まで、さらに白鶴江から嘉定の下家渡を経て莊家涇まで、合わせて一萬四千二百余丈を浚えた。また曹家港・蒲匯塘・新涇などの水路を浚え、民はその利に頼って、曹家港を「都堂浦」と呼んだ。
- はじめ周忱が耗羨の規定を奏定していたが、李秉が改定して賦の軽重に応じて増減させた。その規定は甚だ公平であったが計算が難しく、吏は煩雑に堪えなかった。㳟はこれを廃し、すべて忱の旧に戻した。
崔㳟――吏部と晩年
- 吏部の右侍郎が欠けたとき、李賢と王翺が㳟を挙げ、そこで召し用いられた。勧懲の簿を置き、聞くところがあればみな書き留めた。翺は㳟を甚だ頼りにした。左に転じ、父の喪で起復した。憲宗が即位すると致仕を乞うたが許されなかった。
- 成化五年(1469年)、尚書の李秉が罷められた。商輅は姚䕫を用いようとし、彭時は王概を用いようとしたが、言路にいた北方の人々が、時こそ実は秉を追い出したのだと言い、朝廷で騒がしく謗った。時は病と称して出仕しなくなった。侍讀の尹直は、時も概も自分の同郷であることから、これによって罪を得るのを恐れ、急ぎ輅に言って㳟を秉の後任とした。
- 五か月を越えて母の喪で帰り、服喪を終えて南京吏部に起用され、諸司の職に堪えぬ者数人を弾劾して罷めた。十一年(1475年)春、機務に參贊するよう命ぜられた。三年在任して致仕し、さらに二年で卒した。太子少保を贈られ、諡は莊敏。
劉孜――出自と江南巡撫
- 劉孜は字を顯孜といい、萬安の人。正統十年(1445年)の進士で、御史を授かり、遼東を巡按した。景帝が即位すると南遷を建議する者があり、孜は馳せて奏し、言い出した者を斬って人心を定めるよう乞うた。
- 任期が満ちて交代すべきときも、朝議は辺務がまさに繁多だとしてさらに一年留めた。再び畿輔を按じた。当時、滄州の城を築いていたが、法を説いて止めさせた。山東按察使に抜擢された。
- 天順四年(1460年)、吏部が天下の治績卓異の者を挙げたとき、按察使ではただ孜一人であった。左布政使に遷った。
- 翌年春、右副都御史として江南十府を巡撫した。蘇州・松江の財賦は周忱が法を立てて以来、後任者が多く改変していた。孜はまず忱の遺した方式を調べ、酌量して行い、民は便とした。
劉孜――積年の弊政の廃止
- 成化元年(1465年)、應天が飢え、賑貸を行っている最中に江北の飢民で食を求めて来る者が多かったので、孜は諸県の廩をすべて出すよう請い、救われた者は数えきれなかった。
- 当時、民間には積年の困窮が多かった。長江に瀕した官田は久しく廃れて水没していたのになお賦を課され、蘇・松・杭・嘉の諸府は南京の廊房のために富戸を割り当てられ、廊房が倒壊してもなお鈔を徴され、上元・江寧の農民は河泊所の綱戸に代わって鰣魚を採らされ、應天の都税・宣課の諸司は額外の税を増し、江陰など諸県の民戸は荒地の租を償わされ、六合・江浦は官牛について毎年子牛を徴されていた。孜はいずれも疏して廃止させた。
- 召されて南京刑部尚書に任ぜられ、宋傑が後任となった。四年(1468年)に致仕し、途中で卒した。孜は廉潔慎重で事務を精細に処理したが、法を持することが厳しすぎ、当時これを苛酷と評する議があった。
宋傑――短い在任
- 宋傑は人となりが長者であった。二年在任して罷め去り、邢宥が代わった。
邢宥――蘇州知府と江南巡撫
- 邢宥は文昌の人。正統十三年(1448年)の進士で、御史を授かった。福建を巡ったとき、民十人が盗と誣告されて刑に処されようとし、冤を叫んだ。宥が猶予したところ、果たして真犯人が捕まった。
- 天順年間、台州知府として出て治績があったが、連座して晉江の丞に落とされた。憲宗がその職を復し、蘇州知府に改めた。姦民が秋の賦を請け負って着服したので法に処し、その贓一萬緡を得て、沙河の堤を築き官道に甎を敷いた。大水で民が飢えると、奏を待たずただちに米二十萬斛を出して賑わした。宥は日ごろ廉潔剛直で、蘇州を治めては厳しくとも苛酷ではなかった。
- 傑が朝廷に薦め、詔して浙江左參政を加えつつなお府の事務を執らせ、璽書を賜った。半年いて、右僉都御史として傑に代わって巡撫となった。丹陽の河を開き、奔牛の閘を築いて、兌運の余計な費用を省き、民は便とした。まもなく兩浙の塩政を兼理した。属吏を考察して職に堪えぬ者百七十余人を罷めるよう奏した。数年いて、病と称して帰った。
李侃――給事中としての直言
- 李侃は字を希正といい、東安の人。正統七年(1442年)の進士で、戸科給事中を授かった。景帝が監國すると、将才を精選すること、民壮を募ること、戦車を用いることの三件を陳べた。額森が京師に迫ると、議者は城外の馬草を焼こうとした。侃は「敵は軽捷で略奪を事とし、持久する心はない。焼かずにおいて、改めて徴収し民の負担とすることを免れたい」と言い、いずれも許された。
- 当時、父母が容城にいたので、侃は昼夜悲泣し、休暇を乞うて危険を冒して迎えに行った。
- 景泰の初め、扈従して死んだ諸臣を記録することが議されたとき、侃は「難を避けて生き延びた者は厳しく譴責して臣節を励ますべきだ」と言った。上皇が帰ろうとしたとき、同僚の劉福らとともに「礼は厚くすべきだ」と言い、旨に忤らって詰責されたが、尚書の胡濙が弁護してやんだ。
- 再び遷って都給事中となった。軍事のために天下の学校の師儒の俸廩が減らされたので、侃が奏して復させた。戸部尚書の金濂が詔に違って租を徴したので、侃が論じて獄吏に下させた。石亨の甥の彪が民の生業を侵したので、侃は重刑に処すよう請い、あわせて勲戚・中官が細民から力ずくで奪うことを厳禁し、有司が隠せば同罪とするよう請うた。帝は亨・彪を宥したが、他はその請いのとおりとした。
- 当時、給事中で敢えて言う者としては林聰が第一とされ、侃もまた気骨があり直言の声があった。廷議で儲位を易えることが議されたとき、諸大臣は唯々としていたが、侃は泣いて「東宮に失徳はない」と言った。聰と御史の朱英もまた不可と言い、時人はこれを壮とした。詹事府丞に抜擢された。
李侃――山西巡撫と晩年
- 天順元年(1457年)、太常丞に改まり、太僕卿に進んだ。翌年、巡撫が再び設けられ、侃を右僉都御史に抜擢して山西を巡撫させた。
- 奏して言った。「塞北の地は荒れ果てた土地と変わらない。そこに生まれ育った者でなければ、安んじて住み敵に馴れることはできない。今、南人が西北の辺を戍れば風寒を怯れ、寇と聞けば脚がすくむ。北人が南を戍っても暑さに耐えられず、ひそかに逃げる者が多い。南北の軍籍調査で摘発された軍は、それぞれ本土で伍を補わせるべきである。人情も両便で、軍備も整う」。当時は用いられなかった。
- 巡按の李傑の罪を摘発して奏すると、傑もまた侃を暴いた。傑の事は調べて証拠があり除名となり、侃には贓罪がなかったので宥された。
- 六年(1462年)、属吏を考察して布政使の王允・李正芳以下百六十人を罷めるよう奏し、あわせて「諸臣のうち年が臣と同じで職に堪えぬ者は、臣がみな退けました。臣もまた罷めるべきです」と言ったが、詔して許さなかった。
- 侃は性が剛直方正で、力めて風紀を振るい、貪墨の者は跡を絶った。その年の冬、母の喪で帰るとき、軍民が取りすがって泣き、進めないほどであった。服喪を終えてもついに出仕せず、家居十余年で卒した。
- 侃は親に孝、学を好み貧に安んじ、没したときはほとんど納棺もできなかった。𢎞治の初め、國子生の江紀らが、前祭酒の胡儼、都御史の高明・李侃は学問・行い・事功が耳目に著しいとして、そろって諡を賜るよう乞うたが、沙汰止みとなった。侃の二子のうち、徳恢は嚴州知府、徳仁は河東鹽運使となった。
雷復――山西巡撫
- 雷復は字を景暘といい、湖廣寧遠の人。正統初の進士で、行人を授かった。廣西副使を歴任した。藤縣の民である胡趙成が猺と結んで縣治を陥れたが、復が參將の范信とともに討って斬った。
- 成化の初め、大臣の合同推薦で山東右布政使に抜擢された。七年(1471年)、召されて禮部右侍郎に任ぜられ、まもなく右副都御史に改まって山西を巡撫し、李侃の後を継いだ。端正・慎重で法を守り、軍民の心を得た。寇を紅沙烟で破り、さらに烟寺溝・石人村で破って、敕を賜って労を奨められた。
- 当時、山西が大凶作であったのに、廷議は陝西の用兵のために飼料・兵糧を前もって徴収して榆林に転送させようとした。復は上言した。「山西から榆林までは道が険しく絶え、民が銀を持って行って交換すれば価が高騰し、借金をして返済を迫られ、破産する者が多い。今は雨雪が時節を違え、飢民は病んで流離し、困窮の状は万様である。そのうえ納めるべき綾・帛・薬・果などの品も一万に下らない。山東の例に依って免除し、なお国庫を開いて賑い養われたい」。帝は従った。金三萬を出しても足りず、塩四十萬引を売り、あわせて民に粟を納めさせて散官を授けるよう請い、いずれも許された。十年(1474年)夏、在官のまま卒した。
李綱――鐵御史
- 李綱は字を廷張といい、長清の人。幼くして父に従って都に入ったとき車から落ち、車が体の上を通り過ぎたのに傷つかず、人はみな異とした。天順元年(1457年)の進士で、御史を授かった。南畿・浙江を歴按し、浙江の贓吏を弾劾して去らせること四百余人、時人は「鐵御史」と呼んだ。
- 敕を奉じて陝西・延綏の土兵を編成し、帰って太僕寺少卿に遷った。畿輔の馬政を巡り、有司の贈り物をすべて却けた。冀州を按じたとき盗に遭ったが、盗は従者に問うて「太僕の李公か。それではどこから金が得られよう」と言い、箱を開けずに去った。
- 成化十三年(1477年)、右僉都御史に遷り、左に転じ、漕運を督するために出て、平江伯の陳銳とともに事に当たり、一年余りで卒した。銳は箱の中に破れた衣ばかりなのを見て、涙を払って「君子である」と言い、棺と葬具を用意し、その清節を朝廷に伝えた。帝は特に祭葬を賜るよう命じたが、これを令とはしなかった。綱は清らかで剛直なこと李侃に似ており、当時の人に重んじられた。
原傑――出自と地方歴任
- 原傑は字を子英といい、陽城の人。正統十年(1445年)の進士で、二年後に南京御史を授かり、まもなく北に改まった。江西を巡按し、大盗を捕らえて誅し、奸悪が跡を潜めた。
- 順天など諸府を按じたとき大水があり、官馬を飼う者が飼料に乏しく馬が多く斃れ、有司が償いを求めた。傑は免除を請い、また塩引を開中して米を納めさせ飢を賑わすよう疏を上げたが、部に阻まれた。景帝はついに傑の議に従った。
- 江西按察使に飛び越えて抜擢され、寧王奠培の淫乱の事を摘発してその護衛を削った。治績が聞こえて誥を賜り旌表された。山東左布政使に還った。
- 成化二年(1466年)、その地で右副都御史に任ぜられて巡撫した。凶作の年に賑救して民に流亡がなかった。召されて戸部左侍郎となった。
- 当時、黄河は決壊と流路の変化が一定せず、あちらが沈めばこちらが淤土となり、軍民が淤土に就いて開墾していた。姦徒はこれを園場や屯地と称して王府に献じて賞を求め、王府はすぐこれを占有した。傑は献じた者を戍に落とし、あわせて受けた者も罪するよう請い、従われた。
- 江西で盗が起こると、傑が以前に二度その地に臨んで民心を得ていたので、詔して赴いて治めさせ、六百余人を捕らえ誅し、残りはみな解散した。左副都御史に改まり、都察院に戻って院務を佐けた。
原傑――荆襄の流民と鄖陽府の設置
- 荆襄の流民数十萬を朝廷は憂えていた。祭酒の周洪謨がかつて「流民図説」を著し、府県を増置して附籍を許し編戸とすれば、襄・鄧の戸口を充実させ数百年患いがないと説いた。都御史の李賔が奏聞し、帝はこれを善しとした。
- 十二年(1476年)、傑に出て撫するよう命じた。山と谷をあまねく歴訪して朝廷の徳意を宣べると、流民は喜んで附籍を願った。そこで湖廣・河南・陝西の撫按官を大いに集めて籍に登録し、戸十一萬三千余、口四十三萬八千余を得た。来たばかりで産のない者や、日ごろ頑迷な者は郷里に追い返し、附籍した者には軽い税率で田賦を定めたので、民は大いに喜んだ。
- そして地勢を見るに、襄陽の管轄する鄖縣は、竹山・房縣・上津・商洛など諸県の中央にあって道路が四方に通じ、襄陽から五百余里離れ、山林が深く阻んで将吏がめったに至らず、にわかに盗賊があっても府から遠くて制しがたい。そこでその城を拡げて鄖陽府を置き、諸県をこれに属させ、あわせて湖廣行都司を置いて兵を増し戍を設けた。竹山を分けて竹谿を置き、鄖を分けて鄖西を置き、漢中の洵陽を分けて白河を置き、竹山・上津・房縣とともにみな新しい府に隸属させた。また西安に山陽、南陽に南召・桐栢、汝州に伊陽を増し、それぞれ旧来の府に隸属させた。
- 制が定まると、鄧州の知州である吳遠を鄖陽知府に薦め、諸県はみな近隣から良吏を選んで充てたので、流民は落ち着くところを得て四境が治まった。
- 帰ろうとするとき、この地は湖廣・河南・陝西の境にあって事に統一がないとして、御史の吳道宏を推薦して自分に代えた。詔して道宏を大理寺少卿に抜擢し、鄖陽・襄陽・荆州・南陽・西安・漢中の六府を撫治させた。鄖陽に撫治が置かれたのはここに始まる。
- 傑は功により右都御史に進んだ。傑はしばしば外に出て歴任し、都察院に入ってからは外に出たくなかったので、荆襄の命は本意ではなかった。事が終わると急ぎ還朝を請うたが、折しも南京兵部の尚書が欠けたのでこれに任じた。傑は疏して辞したが許されず、ついに南陽で卒した。六十一歳。鄖・襄の民は祠を立て、詔して太子太保を贈り、その子の宗敏を國子生に採った。
彭誼――治水と紹興知府
- 彭誼は字を景宜といい、東莞の人。正統年間、鄉舉から工部司務を授かった。かつて尚書と事を論じて阿ることがなかった。景帝が立つと推薦により御史に改まった。尚書の石璞に従って沙灣の決壊した河を塞ぎ、秩二等を進めた。また決壊すると再び行って塞いだ。
- 景泰五年(1454年)、大學士の王文に従って江淮を巡視し、蘇州の賊を捕らえた功で大理寺丞に推された。翌年二月、右僉都御史に抜擢され、紫荆・倒馬などの関を提督し、都指揮の胡璽が賄賂を受けて軍を放縦にした罪を弾劾した。
- 天順の初め、巡撫の官が罪を得たとき、朝廷に誼を快く思わぬ者がおり、紹興知府に降格された。凶作の年にはすぐ廩を開いて賑貸し、吏が「朝命を待つべきです」と言うと、誼は「民はいま急である。どうして前例に従っていられよう」と言った。白馬閘を築いて海潮を防いだ。九年在任して恵政が多かった。
彭誼――遼東鎮守
- 山東左布政使に飛び越えて抜擢され、入って工部左侍郎となった。
- 成化四年(1468年)、遼東巡撫の張岐が罪を得、吏部が後任を挙げたが、帝は「遼東は王翺の後、しばしば巡撫が代わったが多くは適任でなかった。大臣の中から求めるべきだ」と言い、そこで誼を右副都御史に改めて赴かせた。鎮守中官が諸属衛から横に徴収していたので、誼は「およそ文書は巡撫の審定を経ないものは、担当官はみだりに執行してはならぬ」と令を下し、その暴威が止んだ。
- 十年(1474年)冬、戸部が担当官に檄して黒山の金山を開かせようとした。誼は「永樂中、太監の王彦らがこの山を開き、人夫六千人を督して三か月かかってわずか金八両を得ただけです」と奏して廃止を請い、そこで止んだ。
- 誼は古を好み博学で、律暦・占象・水利・兵法の類に通じた。平生は謙虚で寡黙であったが、事に臨むと毅然として決断があった。遼を鎮すること八年、軍令が振るって粛然とした。年がまだ老いぬうちに四度疏して帰郷を告げ、家居四十余年で卒した。
牟俸――山東巡撫と荒政
- 牟俸は巴の人。景泰初の進士で、御史を授かった。雲南を巡按し、南寧伯の毛勝が金齒を鎮していたので、その違法・放縦の罪を列挙し、将吏が粛然とした。天順元年(1457年)、福建僉事として出た。成化の初め、秩を進めて副使となり、久しくして江西按察使に遷り、政は厳厲を尚んだ。入って太僕卿となった。
- 八年(1472年)、左僉都御史として山東を巡撫した。凶作の年、濟南の倉儲を出して価を下げて糶らせ、臨清関の税を米麦で収めて賑恤に充てるよう請い、いずれも従われた。
- 当時は大飢饉で、賑恤があっても飢民は多く、転々と移る者がいよいよ増えた。俸は隣境の撫按に敕して所在ごとに落ち着かせ、秋の実りには路銀を与えて帰し生業に復させるよう請うた。また淮・浙の塩百萬引の開中と、州県の滞納した課税の全免を乞い、詔して請いのとおりとし、さらに臨清倉の粟十萬石を移して賑わすよう命じた。
- 七月に至って俸はまた「公私ともに困窮し、救荒の策が尽きた。納粟の例を開き、胥吏に選に就くことを認め、富民に散官を授け、あわせて漕糧を差し止めて賑恤に備えられたい」と言った。十月にはまた「今の救荒は飢えを救うだけで寒さを図らない。食を得ても結局は凍え死ぬ。貧民に布と綿を貸されたい」と言い、帝はみな嘉納した。
- 俸はまた東昌・濟寧の倉粟十萬余石を出して軍士の月糧に充て、徳州・臨清に預けてある庫の銀で米を買って賑済し、専擅の罪に伏す旨を奏請したが、帝は特に宥した。
- ついでまた俸の奏によって、柴夫の折価銀を免じ、河南から辺に送る粟を移して山東を救い、別に銀を給して辺の兵糧とし、山東から京に送る租二十萬石を当地の用に充てた。
- 十年(1474年)また飢え、倉儲を出して貸し与えるよう請うた。山東を撫すること五年、荒政に心を尽くし、活かした飢民は数えきれなかった。
牟俸――蘇松巡撫と汪直の讒
- 右副都御史として蘇州・松江の撫に改まった。俸は性が厳しく、管内に大家が多いことから、故意にこれを挫こうとして、私租の取り立てを禁じ、富家に穀を出させて賑恤に備えさせ、動もすれば千を数えたので、怨みと謗りが紛々と起こった。
- 中官の汪直が南京で用務があったとき、ある者が俸を讒したが、直は帰ってまだ手を出さなかった。俸はもと山東で布政の陳鉞と気負って相譲らなかったが、後に鉞がさりげなく俸の短所を言い、直はこれを信じた。
- 十四年(1478年)、俸が事を議しに京に来ると、直は俸を捕らえて詔獄に下すよう請うた。これより先、親しくしていた學士の江朝宗が服喪を終えて還朝したとき、俸は九江に迎え、舟を連ねて下り、行く先々で有司の饗応がかなり盛んであった。直はこれをもって朝宗が口利きを頼んだのだと言い、あわせて下獄させた。供述は僉事の吳㻞ら十余人に及び、みな逮えられた。
- 獄に繋がれること半年、湖廣に謫戍された。俸は江西にいたとき許聰の獄を作り上げるのに加わり、その厳酷を議する者が多かった。このとき禍に遭ったのは、みな汪直の誣告と知られていたが、その冤を晴らす者はいなかった。一年余りで戍所に卒した。
夏壎――廣東按察使としての建言
- 夏壎は字を宗成といい、天台の人。景泰二年(1451年)の進士で、御史を授かった。天順の初め、福建を巡按し、続いて江西の軍籍を整理し、鎮守中官の葉達の恣横の状を摘発したので、達は威を収めた。推薦により廣東按察使に飛び越えて抜擢された。当時、用兵が長年に及び、民を役して城を守らせていたが、壎は着任してことごとく帰した。
- 成化の初め、奏して言った。「猺・獞が鎮まらず用兵に功がないのは、有司の撫育が方を失い、賊がそれに乗じて良民を誘って徒党としているからである。手強い寇は数百でも、脅されて従う者は万を数える。進むときは彼らを前に駆り立て、退くときは殺して憤りを晴らす。害は常に民にあり、利は常に彼らにある。まして用兵が止まなければ供出も日々増える。動揺しやすい人心をもって際限のない軍費に応じさせれば、外患がまだ除かれぬうちに内変が先に起こることを恐れる。監司・守令を慎重に選んで残った民を撫綏されたい。さすれば脅された衆は自ら風を聞いて帰順する」。帝は深くその言を容れた。
夏壎――四川巡撫と早い引退
- まもなく布政使に遷り、江西に転じた。八年(1472年)、右副都御史として四川を巡撫した。苗・獠がしばしば寇をなしたので、壎は互いに知らせ合って共に捕らえる法を立て、賊はそこで鎮まった。古州の苗一萬余が爛土に住んで久しく、時の議はこれを追い払おうとしたが、壎は策ではないと言った。松潘の參將である堯彧が戍兵三千の増員を請うたときも、力めて不可を陳べ、いずれも沙汰止みとなった。
- ついで管内の将校に法を犯す者が多く、奏請していると時が経って逃亡してしまうので、先に逮捕拘禁してから奏聞するよう請い、帝は可とした。
- 壎は剛直清廉で訴訟の裁きに長け、至る所で民に冤がなかった。蜀に二年いて、民も夷も畏れ服した。しかし繁劇を厭い、時勢としばしば齟齬した。子の鍭が詩を献じて帰郷を勧めると、壎は喜んで受け入れた。年まだ五十にならぬうちに退隠を求め、章を四度上げて許された。帰ってからは門を閉ざして親を養い、賓客に会わなかった。さらに五年で卒した。
夏鍭――上書と早い引退
- 鍭は進士に挙げられ、𢎞治四年(1491年)、選を受けに都に入ったとき、上書して李文祥・鄒智らの官を復し、大學士の劉吉を罷めるよう請い、旨に忤らって下獄したが釈された。
- 久しくして南京大理評事を授かり、賦斂・徭役・馬政・塩課の利弊、および宗藩・戚里が民を漁る状を疏論したが、返答はなかった。鍭は日ごろ仕官の意がなく、官にあること一年余りで、母の老いを思って侍養を乞い、そのまま帰った。家居三十余年、ついに再び出仕しなかった。
髙明――御史としての諫争
- 髙明は字を上達といい、貴溪の人。幼くして母に仕えて孝で聞こえた。景泰二年(1451年)の進士で、御史を授かった。内苑で龍舟を造ると聞いて切諫した。ある指揮が大臣に陥れられて死罪に論ぜられたのを、弁じて出した。
- 徐州の民が有司を朝廷に訴えたとき、当時の例では越訴した者は辺に戍らせることになっていた。明は「戍辺は誣訴を防ぐためのものだ。今、訴えが誣でない以上、法では杖に当たるだけだ」と言った。妖言をなす民があり、吏が功を貪って謀反と誣告したが、明は調べて反状がないとし、妖言の律だけを適用した。いずれも許された。
- 河南を巡按して属吏六十人を罷め、再び畿輔を按じ、入って諸道の章奏を統べた。
- 天順の初め、尚書の陳汝言が罪を得ると、諸御史とともに弾劾して下獄させた。四年(1460年)、御史の趙明らが天下の朝覲の官を弾劾して帝の怒りに触れ、草稿を書いた者の名を詰問された。衆は大いに懼れたが、明ひとりが自ら引き受けた。都御史の寇深が「近年の章疏はことごとく明の手から出ています。どうか細事で罪を加えられませんよう」と言い、帝の意は解け、かえって明を有能と称した。
- 石亨が誅されると僮僕までみな捕らえられたが、明が坐すべきでないと言って免れた者が百人。大理寺丞に抜擢された。
髙明――揚州の塩寇と福建巡撫
- 憲宗が立つと南京右僉都御史に任ぜられた。留都で春夏に長雨が続いたので、人事を修めて天意に応えるよう請うた。当時、馬を納めて監生となる者が一萬余人に達したので、明は区別を請うた。郎中の孫瓊・陳鴻漸・梅倫・何宜、主事の宋瑛はみな端正廉潔で進取に淡いから、顕職に抜擢して在位者を励ますべきだと薦め、疏は担当官に下された。
- 成化三年(1467年)、揚州で塩の寇が起こり、守兵が敗れたので、詔して明に討たせた。巨艦を造って「籌亭」と名づけ、江上を往来して戦を督し、江沿いに邏堡を置いて見張らせたので、賊は跡を隠すところがなく、ついに平らげた。内官が私塩を売っていたが、法に拠って没収し、塩政が大いに治まった。そこで利弊十余件を条上し、多くが議して行われ、なお原任に戻った。親の老いを理由に終養を乞うて帰った。
- 十四年(1478年)、上杭で盗が起こり、詔して起用して福建を巡撫させ、兵を督して討たせた。首謀者を捕らえて誅し、残りはみな減死して戍に遣わした。上杭の地は江西・廣東に接して盗が集まりやすいので、分けて永定縣を置くよう請うた。病と称してそのまま帰り、久しくして卒した。
楊繼宗――刑部主事としての獄の裁き
- 楊繼宗は字を承芳といい、陽城の人。天順初の進士で、刑部主事を授かった。囚に疫病で死ぬ者が多かったので、飲食を時に適え、三日に一度は髪をすき湯浴みさせ、活かした者が甚だ多かった。
- また疑わしい獄の裁きに巧みであった。河間で盗を捕らえ、里の民である張文・郭禮に京師まで護送させたが、盗が逃げた。文は禮に「我ら二人とも死罪になる。お前は母が老いていて兄弟もいない。私が盗の身代わりになれば、お前たち母子の命は全うされよう」と言った。禮は泣いて謝し、これに従った。文は手枷をはめて部に出頭したが、繼宗は盗でないことを察し、ついに弁じて出した。
楊繼宗――嘉興知府の清廉
- 成化の初め、王翺の推薦で嘉興知府に抜擢された。僕一人だけを連れ、役所の居室はがらんとしていた。性は剛毅・廉潔・孤高で誰も敢えて犯さなかったが、しばしば父老を集めて苦しみを問い、法を定めてこれを除いた。
- 大いに社学を興し、民間の子弟で八歳になって就学しない者は父兄を罰した。学官に会うには賓客の礼をもってしたので、師儒が競って励み、文教が大いに興った。
- 御史の孔儒が軍籍を整理し、里の長老を多く杖で打ち殺した。繼宗は「御史が人を杖で打ち殺したときは府に来て名を報告せよ」と掲示した。儒が怒ると、繼宗は会いに行って「治を行うには筋道があります。公はただ奸悪と弊害を摘発し、官吏を勧め懲らせばよい。戸ごとに調べ上げるのは有司の仕事で、憲司の体ではありません」と言った。儒は反論できなかったが、内心大いに恨んだ。出発間際に突然府の役所に踏み込んで箱を開けて見たが、破れた衣数枚だけであった。儒は恥じて去った。
- 通りかかる中官には菱・芡と暦の書を贈った。中官が銭を求めると、繼宗はすぐ牒を出して庫の金を取り、「金はここにある。私に受領証をくれ」と言った。中官は舌を巻いて受け取ろうとしなかった。
- 朝覲したとき、汪直が会おうとしたが応じなかった。憲宗が直に「朝覲の官で誰が廉潔か」と問うと、直は「天下で銭を愛さない者は、ただ楊繼宗一人です」と答えた。
楊繼宗――浙江・順天と晩年
- 九年の任期が満ちて浙江按察使に飛び越えて遷った。しばしば中官の張慶と衝突した。慶の兄の敏が司禮監にいて、そのたび帝の前で繼宗を謗った。帝は「一銭も私しないという、あの楊繼宗ではないか」と言った。敏は恐れ入り、慶に手紙を送って「善く遇せよ。上はすでにその人となりをご存じだ」と言った。
- 母の喪を聞くとただちに出発し、駅亭に止まって役所の器物をすべて帳簿に記して有司に渡し、ただ僕一人と数巻の書だけを携えて帰った。
- 服喪を終えて右僉都御史として順天を巡撫した。畿内には権貴の荘園が多く、民の生業を侵すものはすぐ奪い返した。関塞を巡って武備を大いに整えた。星変があって詔に応じて意見を述べ、中官および文武の諸臣の貪残の状を一々指摘し、あわせて出鎮している中官の召還を請うたので、いよいよ権貴に憎まれた。治中の陳翼がその過失を暴き、権貴がそれに乗じて陥れ、雲南副使に左遷された。
- 孝宗が立つと湖廣按察使に遷った。着任すると水百斛を汲ませて庁舎を洗滌させ、そのうえで政務に就き、「私は穢れを除くのだ」と言った。
- ほどなくまた僉都御史として雲南を巡撫した。三司には旧僚が多く、会って歓談したが、そのあと席を立って揖し「明日は公事があります。諸君どうかご了承を」と言い、そのまま職に堪えぬ者八人を弾劾して罷めた。まもなく卒した。
楊繼宗――人となりと鑑識
- 繼宗は力めて気節を持したが、心は慈厚であった。自らを処するには必ず礼をもってし、知府として上官に謁するときは必ず繡服を着、朝覲して吏部に謁するときもそうした。ある者が不可と言うと、笑って「これは朝廷の法服だ。これを着ないなら何に用いる」と言った。
- 浙江按察のとき、倉の官十余人が糧の不足で獄に繋がれ、子女を売って償う者まであった。繼宗は寛くしてやりたかったが手立てがなかった。ある日、月俸が届いたので量らせると元の数を超えており、他の司でも同様であった。そこで倉吏の糧が欠ける理由を悟り、実状を具えて奏聞しようとした。衆は懼れて繼宗に請い、俸を捐てて代わりに償いたいと願い出た。これによって十人は釈された。
- かつて鄉試を監したとき、二つの答案を得て朝服を着けて再拝し、「この二人はきっと天下に大魁するだろう。私は朝廷のために人を得たことを賀するのだ」と言った。封を開くと王華と李旻であった。後に果たして相次いで状元となり、人はその鑑識に服した。天啟の初め、貞肅と諡された。
史論
- 贊に言う。明初は十五の布政司を分けて天下を治め、諸辺の要害には侯伯・勲臣を遣わして鎮め扼させた。永樂の末、蹇義ら二十六人に敕して天下を巡行し軍民を安撫させたが、事が終われば還朝し、恒常の制度とはしなかった。宣徳の初め、はじめて熊概に蘇州・松江・兩浙の巡撫を命じ、数年を越えて江西・河南の諸省にも順次専任の巡撫官を置いた。天順の初めに一時廃されたがまた設けられ、諸辺にもやや廷臣を用いて出鎮させ、あるいは軍務に參贊させた。
- 思うに、地は大きく物は多く、法令は繁多で、三司は謹んで教条を奉じて常職を修めるにとどまる。ゆえに利を興し弊を除き、賦税を均しくし、貪濁を撃ち、善良を安んじることは、ただ巡撫だけが便宜に事を行えたのである。熊概以下の諸人は、強幹な者は声威を立て、温和な者は恵愛を施し、政績はいずれも記すべきものがある。于謙・周忱の巡撫は最も名高く、勲業もとりわけ盛んなので、別に著した。