明史卷一百五十八 列傳第四十六 吳訥

出自と御史

  • 吳訥は字を敏徳といい、常熟の人。父の遵が沅陵の主簿となり、事件に連座して京師に繋がれた。訥は上書して身代わりを乞うたが、事が晴れぬうちに父は没した。訥は発奮して力学した。
  • 永樂年間、医術によって推薦されて京に至り、仁宗が監國としてその名を聞き、功臣の子弟を教えさせた。成祖が召し出して問答したところ意に適い、日々禁廷に侍って顧問に備えさせた。
  • 洪熙元年(1425年)、侍講學士の沈度が訥を経学に明るく行いが修まっていると推薦し、監察御史を授かった。慎み深く廉直で、飾り繕うことをしなかった。

浙江・貴州の巡按

  • 宣徳の初め、浙江を巡按し、風紀を振るい綱常を植えることを務めとした。当時、軍籍の犯罪者で逃亡した者は、しばしば家人にみだりに訴えさせ、逮捕・拘禁される者が千人に達した。訥は厳禁を請い、たとえ冤罪であっても越訴させないこととし、従われた。
  • 続いて貴州を巡按し、恩と威をともに行ったので、蛮人が畏れ服した。交代して帰ろうとすると管内の民が闕に詣でて留任を乞うたが、許されなかった。
  • 五年(1430年)七月、南京右僉都御史に進み、まもなく左副都御史に進んだ。

誣告と致仕

  • 正統の初め、光祿丞の董正らが官物を盗み、訥が摘発して四十四人を戍に落とした。右通政の李畛が蘇州・松江に使いして行状に不謹慎が多く、訥がそれとなく戒めたが、畛は快く思わず、訥が詔書を遅滞させたなどと誣告した。訥が疏して弁じ、互いに台省に弾劾されてともに逮えられ下獄したが、まもなく釈された。
  • 英宗が初めて経筵に臨むと、自ら編んだ『小學集解』を上った。四年(1439年)三月、老齢のため致仕し、朱與言が後任となった。
  • 訥は博覧で議論に根拠があり、性理の奥義について発明が多く、その著書はみな後世に伝えるに足るものであった。帰郷しては布衣・粗食、四方の壁だけの暮らしであった。周忱が江南を撫し、その住まいを新しくしようとしたが受けなかった。家居十六年で卒した。八十六歳。諡は文恪。郷人は言偃の祠に祀った。

朱與言――四川の治と南京都察院

  • 朱與言は字を一鶚といい、萬安の人。永樂九年(1411年)の進士で、湖廣按察僉事を授かった。宣徳年間、四川副使に遷った。
  • 合州で盗賊が起こると、吏目の熊鼎を督して六十余人を斬らせ、賊勢はついに衰えた。事が報告されて鼎を合州同知に抜擢した。雅州の妖人が乱をなすと、與言が捕らえて京師に送り、境内が安寧となった。
  • 正統元年(1436年)、南京右副都御史に召され、入って訥に代わり院の事務を統べた。年老いて致仕し、卒した。
  • 與言は剛直方正で廉潔慎重、政をなすに大局を務め、しばしば建言してその多くが時弊に切実であった。家居しても門内は清らかに粛然とし、郷人は不善があると與言に知られることをひたすら恐れた。