刑獄と吏部
- 章敞は字を尚文といい、㑹稽の人。庶吉士から刑部主事を授かった。山西で盗賊が発生し数百人が捕らえられたが、敞はその冤罪を察し、言葉と顔色が他と違う一人だけを留め、残りはみな釈した。翌日訊問すると、留めた者が盗賊で、他は違っていた。
- 郎中に遷り、吏部に改まった。
安南への使い
- 宣徳六年(1431年)、禮部侍郎に抜擢され、徐琦とともに安南に使いした。黎利に国事を摂らせる命であった。利が人を遣わして会見の礼を問い合わせると、敞は「そなたが使者を敬うのは朝廷を尊ぶためだ。何を問い合わせる必要があるか」と言った。利は命に従い、小走りに進んで拝し、下座に着いた。音曲や女色で誘っても動じなかった。
- 帰るとき厚い餞別を贈られたが受けなかった。利がそれを貢使に託し、関所に至ると、敞は貢物をすべて検め、その餞別を封じて関の吏に渡した。
- 利が死んで子の麟が嗣ぐと、敞は再び詔を奉じて赴き、初めと同じく餞別を却けた。
- 正統の初め、洪武以来の条格を編纂し、諸司に参酌させたので、吏が不正を働けなくなった。尚書の胡濙は寛大で、敞が厳粛をもって補佐した。二年(1437年)十二月に卒した。子の瑾もまた累進して禮部侍郎に至った。
徐琦――出自と安南再使
- 徐琦は字を良玉といい、先祖は錢塘の人だが、その祖父が寧夏に流罪となってそのまま家とした。幼くして力学し、経史に通じた。永樂十三年(1415年)に進士に挙げられ、行人を授かった。兵部員外郎を歴任した。聡明機敏で決断があり、官にあっては大局を保つよう努めた。
- 宣徳六年(1431年)、右通政に抜擢され、敞に副って安南に使いし、やはり贈り物を受けなかった。帰って南京兵部右侍郎に任ぜられた。
- 八年(1433年)、帝は安南の貢賦が額に達せず、南征の士卒もすべては帰っていないことから、琦を再び遣わした。当時、黎利はすでに死に、その子の麟は疑って決しかねていたが、琦が禍福を説き諭すと、麟は懼れて身代わりの金人を鋳、方物を貢して謝した。帝は喜び、琦の軍籍を除き、宴を賜って厚く賚した。
徐琦――南京參贊機務
- 正統の初め、工部侍郎の鄭辰とともに南畿の有司を考察し、不法の者三十人を罷めた。当時、災異がしばしば現れたので、琦が災を鎮める十件を陳べ、ことごとく嘉納された。
- 五年(1440年)、南京の機務に參贊するよう命ぜられ、十四年(1449年)、尚書に進み、參贊は元のままとされた。
- かつて、以前に分けて配属した南京の軍の家族はみな北へ移すべきだと言う者があり、朝議はこれを実行しようとした。琦は「土地に安んじ移住を厭うのは人の情です。今にわかに数萬の衆を移せば、人心がひとたび動揺し、事は測り知れません」と奏し、この件は沙汰止みとなった。
- 軍衛に学校がなかったので、琦は天下の衛所にも府州県の例に倣って学を立てるよう請い、従われた。
- 景泰元年(1450年)、靖遠伯の王驥が機務に贊し、琦は専ら部の事務を執った。驥が任を解かれると、琦がなお參贊した。四年(1453年)三月に卒した。六十八歳。諡は貞襄。
劉戩――安南で重んじられた使者
- 敞と琦はいずれも安南への使いで使命を辱めなかったことで称された。安南は貨財を宝としないので、後の使者はおおむね水路を通り、商人を連れて行って利を得たため、交人はかなりこれを軽んじた。
- 𢎞治のとき、侍講の劉戩が詔を頒つために赴き、南寧から伝馬に乗ってその国に着いたので、交人は大いに驚いた。戩は旧制のとおり陪臣の拝謁を受け、一言も交わさず、一泊してすぐ発った。贈り物は一切受けず、使いの者が路上で待ち受けて強いて渡そうとしても、ついに払いのけて去った。敞・琦とともに交人に重んじられた。戩は字を景元といい、安福の人である。