明史卷一百五十八 列傳第四十六 段民

唐賽兒の乱と兵糧輸送

  • 段民は字を時舉といい、武進の人。永樂二年(1404年)の進士で、庶吉士に選ばれ、章敞・吾紳らとともに文淵閣で学び、そろって刑部主事を授かった。民はまもなく郎中に進んだ。
  • 山東の妖婦、唐賽兒が乱を起こし、三司の官が賊を取り逃した罪で誅され、民が左參政に抜擢された。当時、賽兒の捜索が急で、山東・北京の尼僧および天下の出家した女性をことごとく逮捕し、前後で万人近くに及んだ。民が力を尽くして憐れみ宥したので、人心がようやく安んじた。
  • 車駕の北征では、兵糧の舟が濟寧から潞河に達し、陸路で居庸を出て塞外に至った。民が深く計り細かく算じたので、下は煩わされず事は成った。帰還後、巡按御史とともに、通過した府県の吏の廉潔・貪汚を調べて奏聞するよう敕された。

南京の戸部・刑部

  • 宣徳三年(1428年)、京に召され、南京戸部右侍郎を代行するよう命ぜられ、翌年に正式に任ぜられ、さらに翌年、刑部に改まった。もともとこの二部はともに治まっていないと評判だったが、民が着任すると紀綱が整い、積年の弊が改まった。
  • 上元の人で甥に殴られた者が憤って通政司に訴えた。当時は米を納めて罪を贖わせる令が出ていたが、越訴の禁は甚だ厳しく、犯した者は遼東に戍らせることになっていた。民は「定例によれば目下の者の罪は贖えるのに、目上の者がかえって遠方に流されるのは、道理に照らして落ち着かない。改めて量刑を定められたい」と上言し、帝はこれをよしとした。
  • 帝は民の廉潔・慎み深さを見込んで、特に敕を賜って南京の百官を考察させた。

赦の減刑と最期

  • 八年(1433年)の詔書で、罪囚は十悪を除いて一等減ずることとされた。重罪の囚三十余人は例により赦されない者であったが、民はこれにも減刑を及ぼした。後に処決を報ずる旨が下ったので追い戻したが、すでに数人が逃げていた。民が自ら経緯を陳べ、給事中の年富らが民を弾劾したが、帝は民の賢を知って問わなかった。
  • 九年(1434年)二月、在官のまま卒した。五十九歳。貧しくて納棺もできず、都御史の吳訥が衣衾を贈った。帝は聞いて有司に葬儀を営ませた。成化年間に葉盛が褒賞と恤みを請うたが実らず、その後百余年たってようやく襄介と追諡された。

吾紳――禮部侍郎としての公正

  • 吾紳は字を叔縉といい、開化の人。刑部主事となり、獄の処理で名を得た。郎中を歴任して禮部侍郎に任ぜられた。成祖は吕震に「紳は翰林の出だ。卿の典禮を助けられよう」と言った。
  • やがて震に排斥されて廣東參政として出た。まもなく南京刑部侍郎に召された。敕を奉じて兩廣・福建の地方長官を考察したとき、旧友が參政の任にあって日ごろ貪欲であり、権勢家の多くがかばったが、紳は現地に至ってついにこれを罷めた。時人はその公正を称えた。また禮部に改まり、正統六年(1441年)、在官のまま卒した。
  • 紳は清廉剛強で節を守り、栄達や利得に淡かった。初めて侍郎に任ぜられたとき祝賀の客が集まったが、部屋はがらんとして何の饗応の用意もなく、客は笑って立ち去った。