出自と鎮江の治
- 林鶚は字を一鶚といい、浙江太平の人。景泰二年(1451年)の進士で、御史を授かった。
- 京畿の鄉試を監督したとき、陳循らが試験官を告発し、鶚と同郷の林挺が推薦の中に入っていたことから鶚に私情があると疑われた。挺を逮えて取り調べたが、挺には他意がなく、疑いは晴れた。
- 英宗が復辟すると(1457年)、先朝の先例に倣って廷臣を地方に出して知府とし、鶚は鎮江を得た。召見されて食事と道中の費用を賜り、抜擢の趣旨を諭された。鶚は感激して弊を革め廃れた事を興し、治績が大いに聞こえた。
- 漕運は従来、孟瀆を経て甚だ険しく、巡撫の崔恭は七里港から河を鑿ち、金山の上流を引いて丹陽に通じ、これを避ける議を出した。鶚は「道が遠く石が多いうえ、民の家屋や墳墓を壊す。京口閘・甘露壩の旧跡に従って浚渫し、舟を通わせ、春夏は閘を開き、秋冬は壩を越させれば、手間が省けて便利である」と言った。恭がその議に従い、永く利益となった。
按察使から刑部侍郎へ
- 五年在任し、才が困難な土地の統治に堪えるとして蘇州に移された。成化の初め、江西按察使に飛び越えて任ぜられた。死罪に当たる者が有力者に賄賂して助命を求めても、鶚はいよいよ堅く法を執った。
- 廣東の寇が贛州を掠めて急を告げると、兵を調えて防ぎ、賊は逃げ去った。廣信の妖賊が天神を妄りに称して衆を惑わすと、その首魁を捕らえて誅し、たちまち解散させた。
- 左右布政使を歴任し、飢饉の年に民租十五萬石の減免を奏した。成化六年(1470年)、南京刑部右侍郎に抜擢された。母の喪に服し、服喪を終えて刑部右侍郎に召され、法を執って屈しなかった。十二年(1476年)、病を得て卒した。
- 鶚は母に孝順謹厳に仕え、妻子に対しても怠った姿を見せず、みだりに人と交わらず、公務の余暇には端坐して読書した。没したとき棺と衣衾を整えることもできず、友人がその葬儀を取り仕切った。
- 鶚が蘇州にいたとき、先聖の像が剥落していた。鶚は「塑像は古の制ではない。昔、太祖は國學で木主を用いられた」と言い、それに改めさせた。嘉靖年間、御史の趙大佑がその節操と行いを上奏し、刑部尚書を贈られ、諡は恭肅とされた。