明史卷一百五十七 列傳第四十五 楊鼎

出自と建言

  • 楊鼎は字を宗噐といい、陝西咸寧の人。家が貧しかったが力学し、鄉試・會試ともに第一となった。正統四年(1439年)の殿試で第二となり、編修を授かった。しばらくして侍講の杜寧ら十人とともに東閣に選ばれて学業に励んだ。
  • 鼎は侍従の身でありながら功名を立てたいと思い、かつて戎備を整えることと三辺に漕運を通じることの二件を建言した。同輩は迂遠だと嘲ったが、鼎はいよいよ自信を深めた。額森が京師に迫ろうとしたとき、行監察御史事として兖州で兵を募った。

戸部での抵抗

  • 景泰三年(1452年)、侍講兼中允に進んだ。五年(1454年)、戸部右侍郎に抜擢された。天順の初めに左侍郎に転じ、陳汝言が讒言したが帝は取り合わなかった。三年(1459年)冬、陵寝の陪祀が不謹慎だとして下獄したが、杖罪を贖って職に復した。
  • 帝がかつて宦官の牛玉に旨を伝えさせ、江南の折糧銀を取って内帑を満たし、代わりに他の税物で武臣の俸に充てようとしたが、鼎は不可とした。馬・牛の飼料が乏しく十分の二を徴収する議も、民の困窮を理由に阻み、いずれも取りやめとなった。
  • 七年(1463年)、尚書の年富が病んだので、鼎に部の事務を掌るよう詔した。成化四年(1468年)、馬昻に代わって戸部尚書となり、翁世資を侍郎とした。

流民策と倉儲

  • 六年(1470年)、疏して言った。陝西の外患は西の寇、内患は流民である。寇の害は辺塞にとどまるが、流民は腹心の病である。漢中は万山の奥に僻在して川蜀の咽喉に当たり、四方からの流民が数萬いる。急き立てれば変事が生じ、放置すれば後の憂いとなる。しばらく監司一人を置いて専管させ、土着の籍に入ることを望む者は許し、望まぬ者は路銀を与えて送り返し、あわせて守臣とともに士馬を練り城池を修めれば、後日の患を防ぐことができる、と。詔して従った。
  • 湖廣が連年飢え、倉庫を出し尽くしていたが、この年は実りがあったので、鼎の言によって庫の銀と布を出して米に換え、災害に備えた。
  • 淮・徐・臨・徳の四倉には旧来百余萬石を積んでいたが、その後は兵糧が乏しく民が飢えるたびに移用を請い、粟が底をつきかけていた。鼎が贖罪・中塩・折鈔・徴逋など六件を議して上奏し実行させたので、諸倉に貯えができた。まもなく太子少保を加えられた。
  • 鼎は戸部にあって廉潔を守ったが、性質はいささか融通が利かなかった。十五年(1479年)秋、給事・御史が鼎は国を経営する才ではないと弾劾した。鼎は再び疏して辞任を求め、敕を賜って駅伝で帰郷した。有司に命じて月ごとに米二石、年ごとに役夫四人を終身給させた。大臣の致仕にこうした給賜があるのは鼎に始まる。
  • 卒して太子太保を贈られ、諡は莊敏。子の時畼は進士で、累進して侍講學士となり、典故に詳しく世に用いる才があった。時敷は舉人で、廬墓の孝行により徴されて兵部司務となった。

翁世資――減織の諌言と貶謫

  • 翁世資は莆田の人。正統七年(1442年)の進士で、戸部主事を授かり郎中を歴任した。天順元年(1457年)、工部右侍郎に任ぜられた。
  • 四年(1460年)、宦官を蘇州・松江・杭州・嘉興・湖州に遣わして彩幣七千匹を増織させることになった。世資は東南が水害で民が食に窮しているとして、その半減を議した。尚書の趙榮と左侍郎の霍瑄が難色を示したので、世資は自ら咎を引き受けると申し出て、連署して諌めた。帝は果たして怒って発議者を詰問し、榮らが世資に押しつけたので、世資は詔獄に下され、衡州知府に貶された。
  • 成化の初め、江西左布政使に抜擢された。事件に連座して獄吏の手に渡ったが、まもなく潔白が明らかになった。大軍が兩廣を征したとき江西から兵糧を送ることになり、その需要は十萬人分であった。世資は代金を携えて嶺南で米を買う策を議し、民は煩わされずに済んだ。
  • 右副都御史として山東を巡撫し、飢饉の年に倉の貯え五十余萬石を出して、流亡した百六十二萬人を賑い慰撫した。
  • 戸部右侍郎に召されて楊鼎を補佐し、しばらくして薛遠に代わって倉場を総督し、尚書に進んだ。十七年(1481年)、部の事務に戻り、二年を経て致仕した。