甘肅の鎮守
- 任禮は字を尚義といい、臨漳の人。燕山衛の卒として成祖の挙兵に従い、功を積んで山東都指揮使に至った。永樂二十年(1422年)、都督僉事に抜擢され、北征に従って先行して敵を偵察し、還って厚く賞された。
- 仁宗が即位すると廣西都司の事を掌ることを命ぜられ、まもなく遼東に改まった。宣宗が立つと都指揮同知に進み、樂安平定に従い、また烏梁海征討に従って還るとき後拒となった。英宗が立つと左都督に進んだ。
- 正統元年(1436年)、平羌將軍印を佩びて左副總兵に充てられ甘肅を鎮した。阿勒台・多爾濟巴勒がしばしば肅州を犯し、璽書で責められた。二年(1437年)、また莊浪を寇したが都指揮魏榮が撃退し、多爾濟巴勒の甥の巴圖博羅禮を擒えて奏聞した。三年(1438年)、王驥・蔣貴とともに塞を出て多爾濟巴勒を石城に破り、道を分けて梧桐林・額齊納に至り、進んで黒泉に至って還った。斬獲が多く、寧逺伯に封ぜられ、禄千二百石。
- 翌年還朝し、さらに翌年、貴に代わって甘肅を鎮した。八年(1443年)、赤斤蒙古衛都督の且旺鍚嘉が額森の暴横に苦しみ、伊嚕布拉克に移駐しようとした。禮はその地が肅州に近いとして断固許さなかった。ついでその地に寺を建てることを奏請すると、禮はまた「寺を建てれば彼らは必ず移り住み、後患を残します」と言い、事はついに沙汰止みとなった。
- 当時、辺将の家僮で塞上の田を開墾する者は一頃につき糧十二石を納めていたが、禮が続けて朝廷に請うて四石を減らしてもらった。このころ辺塞に警報がなく、禮は巡撫の曹翼とともに屯田して粟を積み、甲を繕い兵を訓練し、辺備はきわめて堅固であった。
沙州衛の収容と晩年
- 十一年(1446年)、沙州衛都督の納格の兄弟が部衆を争って離反した。禮はその飢えと困窮に乗じて内地に移そうとし、折しも納格もまた肅州の境内に住むことを請うた。禮は都指揮の茂哈喇を遣わしてその衆を撫させ、自ら兵を率いてその後に続いた。着くと納格はまた二心を抱き、その部下は衛拉特に走ろうとした。禮は進兵して迫り、ついにその全部千二百餘人を収めて還った。事が聞こえ、賜与がきわめて厚かった。
- 当時、衛拉特の額森は勢い盛んで、納格の弟の索諾木本を祁王に封じていた。禮は二つの寇が結べばいよいよ制しがたくなるとして、人を遣わして招いた。□は従おうとしたが決しかねた。禮はひそかに軍を進めて罕東に至り、これを縛って帰った。帝は大いに喜び、禮に鐵劵を賜わって世襲させた。
- 十四年(1449年)、額森が道を分けて入寇し肅州に迫った。禮は禆將を遣わして防がせたが、二たび戦って二たび敗れ、士馬を万を数えるほど失った。召還されて伯として邸に退いた。景泰の初め、三千營を提督し、老齢のため致仕した。久しくしてまた起用されて南京を守備し、入って中府を掌った。
- 禮は兵卒から起こって大将に至り、恪謹に法を奉じた。成化の初めに卒し、侯を贈られ、諡は僖武。子の夀が嗣いで總兵として陜西を鎮したが、満四征討で軍律を失ったことに坐して死を宥され辺境に戍した。その子の𢎞に世襲の指揮使を与えた。