明史卷一百五十五 列傳第四十三 蔣貴

松潘・甘涼の戦い

  • 蔣貴は字を大富といい、江都の人。燕山衛の卒として成祖の挙兵に従った。雄偉で力があり騎射を善くし、功を積んで昌國衛指揮同知に至った。大軍に従って交阯および沙漠を征し、都指揮僉事に遷って彭城衛の事を掌った。
  • 宣徳二年(1427年)、四川松潘の諸番が叛くと、右參將に充てられ總兵官陳懐に従って討った。郷導を募って険を越えて進み、その巣に迫り、一日に十数戦して大敗させ、都指揮同知に進んで宻雲を鎮守した。
  • 七年(1432年)、ふたたび參將として懐を佐けて松潘を鎮した。翌年、都督僉事に進み副總兵に充てられ、方政を協けて鎮守した。さらに翌年、諸番がまた叛き、政らが道を分けて進討した。貴は兵四千を督して任昌の大寨を攻め破り、都指揮趙得・宮聚と会して順次に龍溪など三十七寨を討ち平らげ、斬首一千七百級、崖から身を投げ水に落ちて死んだ者は数え切れなかった。勝報が届いて都督同知に進み、總兵官に充てられ平蠻將軍印を佩びて政に代わって鎮守した。
  • 英宗が即位すると、統べるところがみな最も辺境であるとして軍士の月糧を増すことを奏した。
  • 正統元年(1436年)、召還されて右都督となった。阿勒台が甘・凉を寇し辺将が急を告げたので、平虜將軍印を佩びて師を率いて討たせた。賊が荘浪を犯し都指揮江源が戦死し、士卒百四十餘人を失った。侍郎徐晞が貴を弾劾したが、朝議は、貴はちょうど甘州で軍を選んでいて勢い間に合わなかったこと、荘浪は晞の管轄であることから、晞が罪を人に押しつけたと責め、貴は不問に付された。

烏拉納の奇襲と定西伯

  • 翌年春、諜報が敵は賀蘭山の後ろに駐屯していると告げた。詔して大同總兵官方政と都指揮楊洪に大同以西から出させ、貴と都督趙安に凉州の塞から出させ、会して討たせた。貴が魚兒海子に至ったとき、都指揮の安敬が「この先には水草がない」と言ったので引き返した。鎮守陜西都御史の陳鎰がその状を奏し、尚書王驥が辺務の処理に出て敬を斬り、貴を責めて功を立てさせた。
  • 貴は感奮した。折しも多爾濟巴勒が罪を恐れて続けて使を遣わして入貢し、敵の勢いはやや弱まった。貴は軽騎を率いて狼山でこれを破り、石城まで追った。ついで多爾濟巴勒が烏拉納の地で阿勒台に身を寄せていると聞き、貴は二千五百人を率いて前鋒となり襲いに行った。副將の李安がこれを阻もうとすると、貴は剣を抜いて厲声で叱り「軍を阻む者は死あるのみ」と言い、そのまま鎮夷の間道に出て三日三晩疾駆してその巣に至った。
  • 阿勒台はちょうど馬を放牧していた。貴はにわかに馬群に突入し、士卒に鞭で弓袋を打たせて馬を驚かせ、馬はすべて逃げ散った。敵は馬を失い弓を引いて徒歩で戦った。貴は騎を放って蹂躙し、指揮の茂哈喇が奮って敵陣に入り、大いに破った。さらに軍を二翼に分け、別に百騎を高所に上らせて疑兵とし、転戦すること八十里。折しも任禮もまた敵を追って黒泉に至り、阿勒台と多爾濟巴勒は数騎で遠く逃げ、西辺はことごとく平らいだ。
  • 三年(1438年)四月、王驥が勝報を上げ、論功で定西伯に封ぜられ、食禄一千二百石、世劵を与えられた。翌年、任禮に代わって甘肅を鎮し、さらに翌年の冬、麓川の蠻思任發征討のため京に召された。

麓川の征討と最期

  • 六年(1441年)、平蠻將軍印を佩びて總兵官に充てられ、王驥とともに師を率いて金齒に至り、道を分けて麓川の上江寨を突き、木籠山の七寨および馬鞍山の象陣を破った。功はいずれも第二であった。事の詳細は王驥傳にある。翌年、軍が還って侯に進封され、禄三百石を加えられた。
  • 八年(1443年)夏、ふたたび平蠻將軍印を佩びて王驥とともに思任發の子の思機發を討ち、その寨を攻め破った。翌年、軍が還って賞賜がきわめて厚く、歳禄五百石を加えられた。この役で貴の子の䧺は敵が敗れたのに乗じて三十人を率いて深入りしたが、敵がその後ろを扼したので自刎して江に沈んだ。懐逺將軍・彭城衛指揮使を贈られた。
  • 十四年(1449年)正月、貴は卒した。年七十、涇國公を贈られ、諡は武勇。
  • 貴は兵卒から起こり字を知らなかったが、天性素朴で、自分を忘れて人にへりくだり、士卒と甘苦を同じくすることができた。国境の外へ賊を討ちに出るときは、衣・糧・器械をつねに自ら袋に負い、一人も使役しなかった。陣に臨めばいつも自ら先んじた。それゆえ向かうところ功があった。

蔣琬――義子の襲爵と辺防・京営の建議

  • 子の義は病で嗣げず、義子の琬が侯を嗣いだ。天順の末、平羌將軍印を佩びて甘肅に総兵し、甘州・沙河の諸屯堡を築いた。成化八年(1472年)、召還されて南京を協守し、あわせて操江を督した。十年(1474年)、入って十二團營を督し、まもなく神機營の兵をも総べた。
  • 上言した。太祖が南京を創建されたとき、京城の外にさらに土城を築いて居民を衛られたのはまことに万世の業である。今の北京には内城があるのみで、己巳の変には敵騎が長駆して城下に迫った。これを鑑とすべきである。今、西北隅の旧跡はなお残っているから、速やかに勧募の令を行い、工事の罰役を加えれば、成功は難しくない、と。
  • また上言した。大同・宣府など諸塞下の肥沃な田はおよそ数十万あるが、ことごとく豪族に占められ、畿内八府の良田も半ばは有力者の家に属し、細民は生業を失っている。もし辺関に警報があれば内郡は何を頼りとし、運送路が塞がれば京師は何で賄うのか。給事中・御史を遣わして塞下の田を検覈して租額を定め、畿内の民田については豪族を厳しく取り締まって侵奪させぬようにしていただきたい。そうすれば兵民は食が足り、内外に備えができる、と。奏章は担当官に下され、すべては行われなかったが、当時の議論はこれを是とした。
  • 十三年(1477年)、京軍を率いて大同・宣府の秋の警備にあたり、機宜十餘事を陳べていずれも許可された。十五年(1479年)、汪直とともに遼東の辺事を按じた。二十年(1484年)、將軍印を佩びて出て辺寇を防ぎ、寇が退いて班師した。累加して太保兼太子太傅。卒して凉國公を贈られ、諡は敏毅。
  • 子の驥が嗣いで京營の兵を統べ、𢎞治中に總兵官に充てられ、薊州・遼東・湖廣を歴鎮した。中外に官すること二十年、家に余財がなかった。二代を経て孫の傳に至り、嘉靖中にたびたび軍府を統べ、征蠻將軍印を佩びて両廣を鎮し、海賊および慶逺の猺を平らげた功で太子太保を加えられた。明が亡んで爵は絶えた。