松潘の乱
- 陳懐は合肥の人。父の職を襲って真定副千戸となった。永樂の初め、功を積んで都指揮僉事に至り、安南平定に従って都指揮使に進み、山西都司の事に臨んだ。ふたたび張輔に従って安南の賊簡定を擒え、都督費瓛に従って凉州の叛人虎保を征し、いずれも功があった。仁宗が立つと都督同知に進んだ。
- 宣徳元年(1426年)、梁銘に代わって總兵官として寧夏を鎮した。当時、交阯を征した官軍がしばしば敗れたので、詔して松潘の軍を発して援けさせようとしたが、将士は行くのを嫌がった。千戸の錢宏が衆と謀って番人が叛いたと偽り、兵を率いて麥匝の諸族を掠めたので、番人は震え上がってついに叛き、指揮陳傑らを殺して松潘・疊溪を陥とし、威・茂の諸州を囲んだ。指揮の呉玉・韓整・高隆が相次いで敗れ、西の辺境は騒然となった。
- 詔して鴻臚丞何敏、指揮呉瑋を招撫に遣わし、懐に劉昭・趙安・蔣貴を統べて兵数万を率いその後に従わせた。瑋らが至っても賊は命に従わなかったので、瑋は龍州知州薛繼賢とともに賊を撃って松潘を回復した。懐が至ると、なお瑋を前鋒に用いて疊溪を回復し、二十餘寨を降し、招撫して生業に復した者一万二千二百餘戸、掠われた軍民二千二百餘人を返させ、事はようやく収まった。懐は左都督に進み金幣を厚く賜わったが、瑋の功は抑えられて記録されなかった。
- 懐は留まって四川を鎮したが、在鎮中に驕縦不法で、民事に干渉し、賄を受けて罪人をかばい、屯田を侵奪し、僉事の柴震らを笞で辱め、しばしば言官に弾劾された。帝は敕を降して責め、さらに御史王禮の弾劾状を示したが、懐が罪を認めたので不問に付した。
- 六年(1431年)、松潘の勒都・北定の諸族および空郎・龍溪の諸寨の番がまた叛いた。懐が兵を遣わして戦わせたが敗れ、指揮安寧ら三百餘人が死んだ。そこで懐は自ら兵を督して深入りし、革兒骨寨を破り、進んで空郎・乞兒洞を攻めた。賊は敗れ、斬首されまた崖から落ちて死んだ者は数え切れなかった。革兒骨の賊がふたたび生苗を集めて迎え撃ったが、これを撃破し、ほとんど討ち尽くした。かくて任昌・牛心の諸寨の番も風を聞いて降を乞い、群寇はことごとく平らいだ。
- しばらくして巡按御史および按察使がまた、懐は身分を越えて奢り、毎朝三司の官に班を分けて立たせ、用があれば跪いて申し上げさせ、懐は中央に坐して勅旨と称して処置し、しかも日々酒に溺れて辺備を整えず、城寨の失陥を招いたと奏した。宣宗は怒って懐を召還し、文武大臣に取り調べさせ、罪は斬に当たるとして都察院の獄に下したが、死を宥して職を落とした。
- 正統二年(1437年)、もとの官で大同を鎮した。当時、北から貢に来る者に日々食糧を給しており軍民の負担となっていたので、懐が朝廷に言って減省させた。二年いて老齢のため召還され、中府の事を理めるよう命ぜられた。
- 九年(1444年)春、中官の但住とともに古北口を出て烏梁海を征し、還って馬亮らとともに封ぜられ、懐は平鄉伯となった。十四年(1449年)、駕に扈従して北征し、土木で死んだ。侯を贈られ、諡は忠毅。
- 子の輔が襲爵を乞うたが、吏部は世劵ではないとして頑として許さなかった。景帝は懐が事に死んだとして許した。輔が卒して子の政が襲を請うと吏部は当初どおり反対したが、中旨で嗣ぐことが許された。政は両廣を鎮すること久しく、自ら軍功を陳べて世劵を乞い、吏部はまた不可としたが、詔してこれを与えた。政が卒して子の信が嗣ぎ、𢎞治中に子なく卒し、弟の俊が指揮使を嗣いだ。
馬亮――烏梁海の役
- 馬亮は淇の人。燕山衛の卒として成祖の挙兵に従い、功を積んで都指揮僉事に至り、宣宗のとき官は左都督に至った。烏梁海の役では中官の劉永誠とともに劉家口を出て、黒山・大松林・流沙河の諸処に至り、賊に遇って勝ち、還って招逺伯に封ぜられた。
- この役は王振が主導したので、諸将は功が少なくても大方は封ぜられた。亮は騎射を善くし、戦うたびに士卒に先んじ、向かうところ勝った。当時、驍将と称された。伯となって三年で卒し、諡は榮毅。