襲爵と交阯総兵
- 王通は咸寧の人、金鄉侯真の子である。父の官を嗣いで都指揮使となり、父の兵を率いて転戦して功があり、累進して都督僉事。さらに父が事に死んだゆえに武義伯に封ぜられ、禄千石と世劵を与えられた。
- 永樂七年(1409年)、長陵の造営を董した。十一年(1413年)、成山侯に進封され禄二百石を加えられた。翌年、北征に従って右掖を領し、二十年(1422年)、出塞に従って大軍の殿となり、続けて出塞したときもともに右掖を領した。仁宗が即位すると後府を掌ることを命ぜられ、太子太保を加えられた。
- 当時、交阯總兵官の豐城侯李彬がすでに卒し、榮昌伯陳智と都督方政が參將として代わって鎮したが不和であり、黎利がますます勢いを張って郡邑をたびたび破り将吏を殺した。智は出兵してしばしば敗れ、宣宗は智の爵を削り、通に征夷將軍印を佩びさせて師を率いて討たせた。
寧橋の大敗と交阯放棄
- 黎利の弟の善が交州城を攻め、都督陳濬らが撃退した。折しも通が到着し、道を分けて出撃した。參將馬瑛が石室縣で賊を破り、通は軍を率いて瑛と合し、応平の寧橋に至って伏兵にかかり軍は大潰した。死者は二、三万人、尚書陳洽もその中にいた。通は傷を負って交州に還った。
- 利は乂安にいてこれを聞き、自ら精兵を率いて東闗を囲んだ。通は気力が挫け、ひそかに人を遣わして利のために封爵を請うことを約束し、清化以南の地を利に帰す旨の檄を出した。按察使の楊時習が断じて不可としたが、通は厲声で叱りつけた。清化守の羅通もまた城を棄てることを承知せず、指揮の打忠とともに堅守した。朝廷は桞升らを遣わして通を助けさせたが、まだ到着しなかった。
- 二年(1427年)二月、利が城を攻めたので、通は精兵五千で不意を衝いて賊営を撃ち破り、その司空丁禮以下万餘級を斬った。利は恐れおののいて逃げようとし、諸将は勝ちに乗じて急撃することを請うたが、通は三日ためらって出ず、賊勢は再び振るった。賊は栅を立て濠を掘り、四方に出て攻掠し、兵を分けて昌江・諒江を陥とし、交州の包囲はいよいよ急となった。通は兵を収めて出ず、利が和を乞うとこれを奏聞した。
- 折しも桞升が戦死し、沐晟の軍は水尾縣に至って進めなかった。通はますます恐れ、さらに利に和を持ちかけ、利のために謝罪の表を馳せ上らせた。その年十月、大いに官吏・軍民を集め、城を出て壇を立てて利と盟約し退兵した。ついで利を宴に招いて錦綺を贈り、利も重宝を贈って謝した。十二月、通は太監山壽と陳智らを水路で欽州に還らせ、自らは歩騎を率いて廣西に還り、南寧に至ってはじめて奏聞した。
- 折しも廷議が戦に倦んでいたので、ついに交阯を棄てた。交阯が内属してから二十餘年、前後の用兵は数十万、饋餉は百餘万に及び、輸送の費用はこれに含まれない。それをここで棄て去った。還った官吏・軍民は八万六千餘人、賊に陥ちまた賊に殺された者は数え切れなかった。土官で義に心を寄せた陶季容・陳汀の類は、それぞれ自ら脱け出して帰順した。
- 翌年、通が京に還ると群臣が次々に弾劾し、死罪と論ぜられて繋獄され、世劵を奪われ家を籍没された。正統四年(1439年)、特に釈されて庶民となった。景帝が立つと都督僉事に起用されて京城を守り、額森を防いで功があり、同知に進んで天壽山を守り、家産を返された。景泰三年(1452年)卒。天順元年(1457年)、詔して通の子の琮に成山伯を嗣がせた。琮の子の鏞は成化のとき元の世劵を賜わり、爵は明の滅亡まで伝わった。
陶季容・陳汀ら、帰順した土官
- 陶季容は代々水尾の土官であった。交阯が平定されると土知縣とされ、歸化知州を歴て宣化府同知に遷り、北閑堡を守った。宣徳元年(1426年)、部下の阮執先らを遣わして賊を清波縣まで追わせたが捕らえられた。賊は執先を返して季容を招かせ、兵で脅したが動じなかった。宣宗はこれを聞いて宣化知府に抜擢し、敕を降して労をねぎらった。賊がまた人を遣わして季容を誘うと、季容はこれを捕らえて沐晟に送り、官軍を導いて水尾で賊を破った。王通が交阯を棄てると、季容は官属を率いて入朝した。
- 陳汀は古雷縣の千夫長。しばしば方政に従って賊を撃ち功があり、政に信頼された。王通が地を棄てると汀は北へ向かったが賊に捕らえられ、官を授けられて交州の東闗を守らされた。汀は家族九十餘人を連れて間道を走ったが、賊が追って家族はことごとく捕らえられ、汀は単身で欽州に入った。帝はその義を嘉して指揮とし、これに賜与した。
- そのほか土官の阮世寧・阮公庭はみな利に従うことを願わず、部下を率いて帰順し、龍州・陳州の地に住むことを乞うた。帝は心して撫恤し、糧と器物を官給するよう命じた。
史論
- 賛に曰く。成祖は季犛の簒立をきっかけに兵を興して罪を問い、天の討伐を明らかにした。陳氏の後裔を求めて得られず、そのままその地を郡県としたのは、乱を取り亡を侮る道を得たものといえる。
- しかし蛮の地は険しく遠く、動きやすく馴らしがたい。数年のうちに叛く者が何度も起こり、桞升は敵を軽んじて軍を失い、王通は臆病から地を棄てた。黄福の恵愛が交に及んで叛いた人心も折れはしたが、大勢はすでに去っており、再度赴任しても功はなかった。
- 宣宗が老成の臣の国を謀る言を用いてきっぱりと度外に置いたのは、得ても益とならず失っても損とならない、事の勢いから争うまでもないと考えたからで、ただ民を労するのを憚り軍糧の工面に窮したからだけではない。
- かつて黄福が張輔に与えた書を考えるに、悪の根が絶えておらず守兵は用に足りないが、御し方があれば次第に安んじられ、守り方を誤ればふたたび変が起こるのを免れない、と述べていた。交阯の事の始終を考量すると、張輔に滇南の沐氏のような役割を果たさせられなかったことが惜しまれる。