明史卷一百五十四 列傳第四十二 陳洽

出自と交阯の経理

  • 陳洽は字を叔逺といい、武進の人。古を好んで学に励み、兄の濟・弟の浚とともに名があった。洪武中、書を善くするというので推薦され兵科給事中を授かった。かつて命を奉じて閲兵したとき、一度通り過ぎただけで顔を覚え、二度目に来た者がいると叱って追い返した。帝はその能力を嘉して金織の衣を賜わった。
  • 父が五開に戍して死ぬと、洽は喪に奔ったが、折しも蛮が叛いて道が塞がっていた。険を冒して間道を行き、父の骨を負って帰った。
  • 建文中、茹瑺の推薦で文選郎中に起用された。成祖が即位すると吏部右侍郎に抜擢され、大理卿に改まった。安南の兵が起こると、洽に廣西へ赴いて韓觀とともに士卒を選び従軍させた。大軍が出ると軍務に贊し、饋餉を主管した。
  • 安南が平定されると吏部左侍郎に転じた。当時、黄福が布政・按察二司の事を掌ってもっぱら寛大にその民を撫していたのに対し、洽は才能ある者を選抜して風紀を引き締め、将士の功罪を審査し、土官を置き、兵食を経理して、裁断は流れるようであった。還朝して禮部・工部の事を兼署するよう命ぜられた。
  • 七年(1409年)、ふたたび張輔の軍に参じて簡定を討ち平らげた。還って帝の北征に従い、輔とともに塞外で練兵した。九年(1411年)、また輔とともに交阯に赴いて陳季擴を討った。五年いて兵部尚書に進み、さらに留まって李彬の軍事に贊した。

寧橋の敗と殉国

  • 仁宗が黄福を召還すると、洽に布政・按察二司を掌らせ、なお軍務に参じさせた。中官の馬騏が貪暴で洽は制することができず、叛く者が四方に起こった。黎利がとりわけ凶悍狡猾であり、榮昌伯陳智と都督方政は仲が悪く、寇の勢いは日に日に強まった。
  • 洽が上疏して「賊は降を乞うといっても内心は偽りで、党羽が次第に盛んになり、やがて制御できなくなります。諸将に諭して速やかに賊を滅ぼさせ、誘いに乗らぬようにしていただきたい」と言った。宣宗は敕を降して智らを厳しく責め進兵させたが、また茶籠州で敗れた。
  • 帝は智・政の官爵を削り、成山候王通に征夷將軍印を佩びさせて討たせ、洽はなおその軍に贊した。宣徳元年(1426年)九月、通が交阯に至った。十一月、応平に進軍して寧橋に次した。洽は諸将に「地形が険悪で伏兵があるおそれがある。軍を止めて賊の様子をうかがうべきだ」と言ったが、通は聴かず、兵を指揮して直ちに渡り、泥沼に陥った。
  • 伏兵が起こり官軍は大敗した。洽は馬を躍らせて賊陣に飛び込み、深手を負って落馬した。左右が扶けて連れ帰ろうとすると、洽は目を見開いて叱り、「私は国の大臣、禄を食むこと四十年。国に報いるのは今日だ。義として生き永らえはせぬ」と言い、刀を振るって賊数人を殺し、自ら首を刎ねて死んだ。
  • 事が聞こえると帝は「大臣が身をもって国に殉ずるのは、一代に幾人もおらぬ」と嘆じ、少保を贈り、諡を節愍とし、子の樞を刑科給事中に任じた。

交阯に死せる将吏たち

  • 黎利が叛いてから用兵三、四年、前後して死んだ将吏はきわめて多い。
  • 候保は贊皇の人。國子生から襄城・贛榆・博興三県の知県を歴任し善政があった。交阯に初めて府県を設け人を選んで撫綏させるにあたり、保を交州府知府とし、右參政に遷した。永樂十八年(1420年)、黎利が叛くと、保は黄江の要害に堡を築いて守った。賊が至って力戦すること数か月、出撃して勝てず死んだ。
  • 馮貴は武陵の人。進士に挙げられ兵科給事中となり、張輔に従って交(阯)を征し兵餉を督し、累遷して左參政。職務に臨んで明敏、よく流亡の民を撫した。土兵二千人は勇猛で戦上手であり、貴は恩意をもって撫し、しばしば賊を撃って功があったが、中官の馬騏がこれをことごとく取り上げた。黎利が叛くと、貴は弱兵数百で瑰縣に賊を防ぎ、力尽きて死んだ。仁宗のとき尚書黄福がその事情を奏し、貴に左布政使、保に右布政使を贈った。ただし貴はかつて交阯に金を産すると言ったため、參議として金場を提督することを命ぜられ、当時の議論はこれを非難した。
  • 伍雲は定逺の人。荊州䕶衛指揮同知として交阯征討に従い、坡壘・隘留を破り、多邦城を陥とし東西二都を抜いて、いずれも功があった。賊が平らぐと昌江衛に転じた。仁宗の初め、方政に随って茶籠に黎利を討ち、深入りして陣に陥り死んだ。
  • 陳忠は臨淮の人。初め寛河副千戸で、靖難の功により官を積んで指揮同知。事に坐して廣西に戍した。交阯征討に従い、箇招市から小舟を担いで江に入り、黎季犛の水寨を襲って破った。多邦城を攻めて先登し、論功で旧官に復して交州左衛に転じた。しばしば賊と戦って功があり、都指揮同知に進んだ。黎利が清化を寇したとき忠は戦死した。仁宗はこれを憐れみ、雲とともに規定どおり手厚く撫恤した。
  • 李任は永康の人。燕山衛指揮僉事として成祖の挙兵に従い、功を積んで都指揮同知。宣徳元年(1426年)、交阯征討に従い昌江を守った。黎利は昌江が官軍往来の要路であるとして全力で攻めた。当時、都督蔡福が賊に捕らえられ、任に降伏を勧めるよう強いられた。任は城上から福を罵って「お前は大将でありながら賊を殺せず、かえって賊に使われている。犬や豚もお前の食い残しは食うまい」と言い、砲を発して撃った。賊は福を抱えて去り、大いに兵・象・飛車・衝梯を集めて城に迫り、四方から攻めた。任は指揮顧福とともに精騎を率いて城を出て奇襲し、その攻城具を焼いた。賊はまた土山を築いて城中に射込み、地道を掘って潜入した。任と福はその都度防ぎ、死守すること九か月余、前後三十戦。賊は征夷將軍桞升の兵が近づくと聞いて兵を増して攻めた。二年(1427年)四月、城が陥ちた。任と福はなお決死の士を率い、三たび戦って三たび賊を破ったが、賊が象を駆って大挙したため支えきれず、みな自ら首を刎ねて死んだ。内官の馮智、指揮の劉順はともに首を吊った。城中の軍民・婦女で屈せず死んだ者は数千人であった。
  • 劉子輔は廬陵の人。國子生から監察御史に抜擢され浙江を巡按した。性は廉平で浙人が徳とした。按察使の周新はみだりに人を認めなかったが、ひとり子輔を賢と称した。廣東按察使に遷ったが、累に坐して諒江知府に左遷され、よくその民を撫した。黎利が叛くと、子輔は守将とともに兵民を集めて死守すること九か月、昌江と相前後して同じく陥落した。子輔は「私は義として賊の刃に汚されはせぬ」と言い、すぐに首を吊って死んだ。一子と一妾もみな死んだ。
  • 何忠は字を廷臣といい、江陵の人。進士から監察御史となり、廉直慎重で誰も私事を頼めなかった。永樂中、三殿の火災について言上して意に逆らい、出て政平知州となり、民はその政に安んじた。寧橋の敗ののち、王通は偽って賊と和議し、朝廷に援軍を請おうとしたが、賊に遮られて通じなかった。賊が使者を遣わして表を奉り謝罪したので、通は忠と副千戸桂勝を同行させ、土地返還を奏請するのを名目として、ひそかに援兵を請わせた。昌江に至ったところで内官の徐訓がその謀を漏らし、賊は忠と勝を拘束して白刃を突きつけたが、二人は目を怒らせ罵って屈せず、忠の子とともにみな殺された。
  • 徐麒は桂林中衛指揮使。南寧千戸の蔡顒とともに邱溫を守った。当時すでに賊勢は熾んで将吏の多くは城を棄てて逃げたが、邱温が囲まれると、麒と顒は疲れた兵を率いてなお固守し、城が陥ちてともに死に、一人も降る者がなかった。
  • 易先は湘隂の人。國子生から諒山知府を授かり善政があった。任期を満ちて還朝したとき、郡の人が留任を乞い、詔して秩三品に進めて還任させた。賊が諒山を破ると、先は自ら首を吊って死んだ。
  • 周安は指揮僉事として乂安を守備した。黎利の勢いが強まり、都督蔡福は秣と糧が尽きかけたため退いて東闗に就いた。行軍すると千戸の包宣がその衆を率いて賊に降った。安らは富良江に至って賊に追い詰められ、ともに賊の手に落ちた。賊が蔡福に迫って諸城に降伏を説かせると、安は憤って密かに部下と謀り、官軍が到着したら内応しようとした。包宣がこれを察して利に告げ、利は安を捕らえて殺そうとした。安は「私は天朝の臣子だ。どうして賊の手にかかって死のうか」と言い、指揮の陳麟とともに躍り立って賊の刀を奪い数人を殺し、みな自ら首を刎ねて死んだ。部下九千餘人はことごとく殺された。
  • 交阯布政使の弋謙が任ら十二人の死事を奏聞すると、宣宗は歎息し、任に都督同知、(顧)福・(劉)順・(徐)麒に都指揮同知、(周)安に指揮同知、(蔡)顒に指揮僉事、(桂)勝に正千戸を贈り、あわせて子孫に承襲させた。子輔には先に布政司參政、(何)忠には府同知、(馮)智には太監を贈り、あわせて誥を与え祭を賜わった。ただ(陳)麟はかつて朱廣とともに門を開いて賊を入れたことがあったので、贈官・撫恤が及ばなかった。その後、黎利が称臣して蔡福・朱廣ら六人を返すと、みな棄市してその家を籍没した。