明史卷一百五十四 列傳第四十二 劉儁

出自と安南参贊

  • 劉儁は字を子士といい、江陵の人。洪武十八年(1385年)の進士。兵部主事に任ぜられ郎中を歴任した。事に臨んでよく裁断し、帝に器量を認められた。二十八年、右侍郎に抜擢された。建文のときは侍中。成祖が即位すると尚書に進んだ。
  • 永樂四年(1406年)、大挙して安南を征するにあたり、儁が軍務に参贊した。儁は人となり緻密で勤勉敏捷、軍中で計画立案を助けて功があり、還って厚く賜わった。

生厥江の敗と殉死

  • まもなく簡定が再び叛くと、儁は再度出て沐晟の軍務に参贊した。六年(1408年)冬、晟が簡定と生厥江に戦って敗績した。儁は大安海口に至ったところで颶風が起こり、砂が舞い上がって昼も暗い中、戦いながら進んだが賊に囲まれ、首を吊って死んだ。
  • 洪熙元年(1425年)三月、帝は儁が賊に陥ちて屈しなかったのに、有司が奏上せず褒賞・撫恤が加えられていないことを知り、禮官を敕して責めた。そこで祭を賜い、太子少傅を贈り、諡を節愍とし、子の奎を給事中に任じた。

吕毅・劉昱――劉儁と同時に死す

  • 儁とともに死んだ者に吕毅・劉昱がいる。
  • 吕毅は項城の人。濟南衛百戸として成祖の渡江に従い、功を積んで都督僉事に至った。同官の黄中とともに左右副將軍に充てられ、征南將軍韓觀を輔けて廣西を鎮した。ついで中とともに兵を率いて故安南王の孫陳天平を帰国させたが、芹站で天平が奪い去られたため、官を奪われた。帝は毅の罪を軽しとして鷹揚將軍に起用し、張輔に従って季犛を討ち功をあげ、交阯都司の事を掌った。ここに至って賊と戦い、深入りして陣に陥って死んだ。
  • 劉昱は武城の人。吏科給事中から左通政に遷り、出て河南參政、のち交阯に改まった。厳粛で行政の才があり、吏民が畏れ憚った。軍が敗れてこれもまた死んだ。