明史卷一百五十二 列傳第四十 周叙

出自と正統年間の上疏

  • 周叙は字を公叙といい、吉水の人。十一歳で詩を作ることができた。永樂十六年(1418年)の進士。庶吉士に選ばれ、「黄鸚鵡賦」を作って帝の意にかない、編修に任じられた。侍讀を歴任し、経筵に直した。
  • 正統六年(1441年)、疏を上げて事を論じ、帝は嘉して容れた。
  • 同年八月、夏にまた上言した。「近ごろ天が旱し、陛下は身を責めて敬虔に祈られたが、臣下からは忠を尽くし過ちを補う言葉が聞かれず、ただ事情を陳べて用いられることを乞うばかりである。銓選を掌る者は賢否を論ぜずただ資格を追い、国計を司る者は耕作や養蚕を問わずひたすら賦を取り立てる。軍士は労役に苦しみ、刑罰は軽重を失い、風憲は励まし挙げることがなく、言官は口を閉ざすことに努める。僧道は数萬に上り、日々戸口をすり減らし、流民は多いのに憐れみ恤む者がない」。帝はこの章を諸大臣に示し、王直らはみな罪を引いて罷免を求めた。

郕王への上疏と三史の重修

  • 正統十一年(1446年)、南京侍講學士に移った。
  • 郕王が監國すると、疏を馳せて述べた。「君父の讐は同じ天を戴かぬもの。殿下は薪に臥し胆を嘗め、越が呉に報いたようになさるべきです。智ある者には謀を献じさせ、勇ある者には力を尽くさせ、北庭を掃討して国恥をすすぐことに努められますよう。まず弁士を遣わし、辞を低くし幣を重くして鑾輿の還御を乞い、しばらく君父のために身を屈められますよう」。あわせて、剛明を励むこと、経史に親しむこと、軍政を修めること、賢才を選ぶこと、民心を安んずること、言路を広げること、政を謹むこと、兆しを慎むこと、庶政を修めることの八事を条を分けて上げた。王は嘉して容れた。
  • 景泰二年(1451年)、また午朝を復活して日々大臣に接して治道を諮り、経筵の余暇に文学の従臣を召して政事を講論し、あわせて天下の臣民に詔して時政の欠失を直言させることを請うた。帝はそこで詔して言を求めた。
  • 周叙は気節を負い、行いと道義に篤かった。曾祖の以立が元の時に、宋・遼・金の三史の体例が当を得ていないとして重修しようとしていた。周叙は先志を継ごうと思い、正統の末に朝廷に請うたところ、自ら撰して編次することを許す詔があった。数年、成らないうちに没した。

劉儼――附伝

  • 同じ邑の劉儼は字を宣化といい、正統七年(1442年)の進士第一。太常少卿を歴任した。
  • 景泰年間、順天の郷試を主宰し、大學士陳循・王文の子を落としたので、危うく禍に遭うところであった。詳しくは高穀の伝にある。
  • 天順の初め、翰林院の事を掌るよう改まり、在職のまま没した。禮部侍郎を追贈され、文介と諡された。
  • 劉儼は朝に立って正直であり、郷にあってもまた善い徳があった。