明史卷一百五十二 列傳第四十 陳濟

出自と『永樂大典』の都總裁

  • 陳濟は字を伯載といい、武進の人。書を読んで目を通せば暗誦した。
  • かつて父の命で錢塘に行ったとき、家人が財貨を持って従ったが、帰るときにその資の半分で書を買い、口で誦え手で写すこと十余年、経史百家の言に通じ尽くした。
  • 成祖が『永樂大典』の編修を詔したとき、大臣の推薦により布衣のまま召されて都總裁となり、修撰の曾棨らがその副となった。
  • 詞臣の纂修に当たる者および太學の儒生は数千人、秘庫の書数百萬卷を繙いて茫漠として手がかりもなかったが、陳濟は少師姚廣孝ら数人とともに凡例を立て、区分し照合して整然と法があった。筆を執る者に疑いがあれば陳濟に質問し、口に応じて弁析し、滞ることがなかった。
  • 書が成ると右贊善に任じられた。謹慎で過失がなく、皇太子はたいそう礼遇し、およそ古を稽え編纂する事はことごとく陳濟に属し、事に応じて奏することも益するところが多かった。五人の皇孫はみな陳濟について経を受けた。
  • 職にあること十五年で没した。年六十二。
  • 陳濟は若いころ酒の過ちがあり、母が戒めたので、生涯二度と酔うに至らなかった。弟の洽は兵部尚書となったが、陳濟に仕えること父のようであった。陳濟は盛満を深く懼れていよいよ自ら謙抑し、住まいは蓬の戸に葦の壁で、わずかに風雨をしのぐばかりであった。終日端座して手から書を離さなかった。文を作るには経史に拠り、華やかな飾りを事としなかった。かつて「文は布帛や豆や粟のように世に益あるものが貴い」と言った。

布衣からの登用――陳繼・楊翥以下

  • その後、陳繼・楊翥という者も布衣で経に通じ、楊士竒の推薦によって用いられた。陳繼は博士から翰林に入り、楊翥はついに景帝の潛邸の恩により俞山・俞綱らとともにみな大官に至った。
  • 天順以後、しだいに資格にこだわるようになった。編修の馬昇、檢討の傅宗は科挙の出身でなかったので、李賢はみなこれを出して參議とし、布衣で館閣に加わりうる者はなくなった。𢎞治年間に潘辰だけが才望によってこれを得たので、当時は珍しい例と怪しまれた。

陳繼――附伝

  • 陳繼は字を嗣初といい、呉の人。
  • 幼くして父を失い、母の呉氏が自ら機を織って読み書きの資とした。長ずるに及んで経学に通じ、人は「陳五經」と呼んだ。
  • 母に仕えて至孝で、府県がこもごも推薦したが、母が老いていることを理由に就かなかった。母が没すると、哀しみに身を損なうこと人に過ぎた。永樂年間、ふたたび孝行を挙げられ、その母を「貞節」と旌表された。
  • 仁宗が即位して𢎞文閣を開いたとき、帝が臨幸して「いま山林にも名士があるか」と問うた。楊士竒ははじめ陳繼を知らなかったが、夏原吉が蘇松の水を治めたときその文を得て帰り、楊士竒に示していたので、心に留めていた。帝の問いに陳繼をもって答え、召されて國子博士となり、まもなく翰林五經博士に改まって𢎞文閣に直した。
  • 宣宗の初め檢討に移り、病を理由に帰って没した。

楊翥――附伝

  • 楊翥は字を仲舉といい、やはり呉の人。
  • 幼くして父を失い貧しく、兄に随って武昌に戍り、生徒を教えて自ら食を得た。
  • 楊士竒がまだ微賎で流寓して困窮していたとき、楊翥は塾舎を譲り、自らは他所で教授した。楊士竒は心中これを賢しとし、貴くなると楊翥が経に明るく行いが修まっていることを推薦した。
  • 宣宗が詔して吏部で試させたところ帝の意にかない、翰林院檢討に任じられ、修撰を歴任した。
  • 正統年間、郕王府の僚属を選ぶよう詔があったとき、諸々の翰林はみな行きたがらなかったので、侍講の儀銘と楊翥を出して左右の長史とした。久しくして年齢を理由に帰ったが、王が大位に即くと入朝して禮部右侍郎に拝せられた。
  • 景泰三年(1452年)、尚書に進み、禄を給されて致仕し、翌年没した。年八十五。
  • 楊翥は行いに篤く俗を絶し、当時の縉紳で徳の厚い者としては楊翥が最も優れていた。没したあと景帝はこれを偲び、その子の珒を召して入覲させ、本邑の主簿に任じた。

俞山――附伝

  • 俞山は字を積之といい、秀水の人。郷挙から郕府伴讀となり、景帝の時に吏部右侍郎に拝せられた。
  • 景帝が東宮を替えようとしたとき、俞山はひそかに疏を上げて諫めたが聴かれなかった。懐獻太子が立つと太子少傅を加えられたが、俞山は心中安んぜず致仕して去った。
  • 英宗が復辟したとき、俞山は致仕していたためにまぬかれた。

俞綱――附伝

  • 嘉興の俞綱は諸生から實録の書写に当たり、中書舍人に試され、郕府審理に任じられた。
  • 景帝の時、兵部右侍郎として入閣して機務に与ったが、三日いて固く辞し、本官を守った。
  • 太子少保を加えられた。景泰の時に二帝の間をうまく取り持つことができたので、南京禮部に転じることができた。成化の初めに致仕して没した。

潘辰――附伝

  • 潘辰は字を時用といい、景寧の人。幼くして父を失い、叔父に随って京師に住み、文学で名があった。
  • 𢎞治六年(1493年)、天下に詔して山林に隠れた才徳の士を挙げさせたとき、府尹の唐恂が潘辰を挙げた。吏部は潘辰が京師で生まれ育ったことを理由にこれを握りつぶしたが、唐恂が再び奏し、給事中の王綸・夏昻もあわせて章を上げて推薦したので、翰林待詔に任じられた。久しくして典籍の事を掌り、『會典』の編修に加わり、完成すると五經博士に進んだ。
  • 正德年間、劉瑾が『會典』の小さな瑕を摘んだため、また典籍に降された。ほどなく元の官に戻った。
  • 南京の祭酒が欠けたとき、吏部が石珤と潘辰を推挙した。帝は石珤に命じ、潘辰を編修に抜擢した。九年いて太常少卿に飛び越えて抜擢され、致仕して帰り没した。特に祭葬を賜った。
  • 潘辰は官にあって勤勉慎重で、朝早く出て夜に帰った。制誥を掌ったとき、幣で謝礼しようとする者があったが堅く退けた。士大夫はその学問と行いを重んじ、南屏先生と称した。