出自と東宮輔導
- 鄒濟は字を汝舟といい、餘杭の人。母に仕えて孝で知られた。博学強記で、とりわけ『春秋』に長じた。
- 餘杭訓導となり、師としての法が厳しかった。累進して國子學録・助教となり、推薦により平度州知州となった。
- 永樂の初め、『太祖實録』の編修に加わり、完成すると禮部郎中に任じられた。安南征討では幕府に従って奏記を司った。還って廣東右參政となり、再び移って左春坊左庶子となり、皇孫に経を授けた。
- 人となりは和やかで平明率直、貴賤を問わず皆親しむことを喜んだ。任期が満ちて少詹事に進んだ。
- ちょうどこのころ宮僚の多くが罪を得、徐善述・王汝玉・馬京・梁潛らが讒せられて相次いで獄に下されて死んだ。鄒濟は憂いが積もって病を得た。皇太子は書を送って「卿はよく自ら養生せよ。もしものことがあれば、卿の子を引き立てて草莽に埋もれさせはしない」と慰めた。
- 没して年六十八。洪熙元年(1425年)、太子少保を追贈され、文敏と諡された。役所に墓の傍らに祠を立てさせ、春秋に祀らせた。
鄒幹――鄒濟の子
- 子の幹は字を宗盛。鄒濟が没したときまだ幼く、仁宗が監國してこれを應天府の學生とし、毎月鈔と米を賜った。
- 正統四年(1439年)の進士。景帝の初め、兵部郎中から飛び越えて同部の右侍郎に抜擢され、才を于謙に頼りにされた。
- 額森が侵入したとき九門はみな閉ざされ、兵を避ける百姓が城下で叫んで入城を求めた。鄒幹は門を開いてこれを収容した。
- まもなく禮部に改まり庶子を兼ねた。山西の官吏を考察し、布政使侯復以下五十余人を退けた。河南・鳳陽の水災を巡視し、王竑とともに賑恤を請うた。また諸生に粟を納めて國子監に入り読書することを許すよう請うた。粟を納めて監に入ることはこれに始まる。
- 成化十二年(1476年)、畿内の飢饉を賑わせ、再び移って禮部尚書となり、太子少保を加えられた。弾劾を受けて退官を乞い、没して康靖と諡された。
徐善述――附伝
- 徐善述は字を好古といい、天台の人。
- 洪武年間、歳貢の法が行われたとき、徐善述が真っ先に貢されて太學に入り、桂陽州學正に任じられた。
- 永樂の初め、國子博士から春坊司直郎に抜擢された。皇太子に重んじられ、いつも「先生」と称され、書を送り酒や詩を賜ったこともあった。右贊善に移ったが、累に坐して死んだ。
- 鄒濟と同じ日に太子少師を追贈され、文肅と諡された。祠を立てて春秋に祀ることも鄒濟と同じであった。
王汝玉――附伝
- 王汝玉は名を璲といい、字をもって通った。長洲の人。
- 聡敏で強記、若くして楊維楨に学び、十七歳で郷試に挙げられた。
- 永樂の初め、應天府學訓導から翰林五經博士に抜擢され、右春坊右贊善を歴任し、『永樂大典』の編修に加わった。仁宗が東宮にあったとき、特に寵遇を受けた。
- 群臣が勅命に応じて「神龜賦」を撰したとき、王汝玉が第一、解縉が次であった。
- 永樂七年(1409年)、礼の書を修めるにあたって制度を乱したことに坐して辺境に戍るべきとされたが、皇太子が監國してこれを宥し、翰林典籍とした。まもなく左贊善に進んだが、解縉の累に坐して獄中で衰弱して死んだ。
- 洪熙の初め、太子賔客を追贈され、文靖と諡され、官を遣わしてその家を祭らせた。
梁潛――附伝の出自と東宮の留守
- 梁潛は字を用之といい、泰和の人。
- 洪武の末、郷試に挙げられ、四川蒼溪訓導に任じられた。推薦により四會知縣に任じられ、陽江・陽春に改まったが、いずれも清廉公平をもって称された。
- 永樂元年(1403年)、召されて『太祖實録』を修め、書が成ると修撰に抜擢され、まもなく右春坊右贊善を兼ね、鄭賜に代わって『永樂大典』の総裁となった。
- 帝が北京に行幸すると、しばしば駅伝で召されて行在に赴いた。
- 永樂十五年(1417年)、再び北京に行幸し太子が監國したとき、帝は自ら侍従の臣を選んだが、翰林ではただ楊士竒に梁潛を副えるのみであった。
梁潛――陳千戸の事件と死
- 陳千戸なる者が民の財をほしいままに取ったので、令旨で交阯に謫されたが、数日後、軍功があることを思って赦して還した。
- ある者が帝に讒して「上が謫された罪人を、皇太子が曲げて宥されました」と言った。帝は怒って陳千戸を誅し、事は梁潛および司諫の周冕に及んだ。行在に逮え、自ら詰問すると、梁潛らはありのままに答えた。帝は楊榮・吕震に「事がどうして梁潛によるものであろうか」と言ったが、結局誰も弁明する者がなく、ともに獄に繫がれた。ある者が周冕は放縦であると謗ったので、梁潛もあわせて誅された。
- 梁潛の妻の楊氏は、梁潛が非業の死を遂げたことを痛み、食を絶って死んだ。
梁楘――梁潛の子
- 子の楘は進士から刑部主事となり、冤罪をよく弁じた。
- 嶽が推薦により廣西副使に抜擢され、布政使に進んだ。将士の多くが良民を殺して功として報告していたので、楘はその帥に諭して、難民一人を生きたまま連れ帰れば功一級に当てるとした。命を全うした者は数知れなかった。
- 田州の土官岑鑑の兄弟が互いに仇となったとき、楘はこれを和解させ、その厚い贈り物を退けたので、心服して従った。教化になじまぬ女土官も、その信義に服した。浙江布政使で終わった。