明史卷一百五十二 列傳第四十 儀智

出自と地方官

  • 儀智は字を居真といい、高密の人。
  • 洪武の末、耆儒として高密訓導に任じられ、莘縣教諭に移り、高郵州知州に抜擢された。農を勧め学を興したので吏民に愛された。
  • 永樂元年(1403年)、寶慶知府に移った。土地の人は強悍であったが、ひとり儀智を畏れ、互いに戒めて犯そうとしなかった。
  • 召されて右通政となり右中允を兼ねた。まもなく湖廣右布政使に移ったが、事に坐して通州で労役に謫された。
  • 永樂六年(1408年)冬、湖廣都指揮使の龔忠が入見したとき、帝が湖湘の間の老儒を問うと、龔忠は儀智を挙げて答えた。その日のうちに召され、着くと禮部左侍郎に拝せられた。

日食の朝賀と皇太孫の輔導

  • 永樂十一年(1413年)の元旦、日食があるはずのところ、尚書吕震が常のとおり朝賀することを請うたが、儀智は不可であると主張した。たまたま左諭德の楊士竒も同じことを述べたので、儀智の議のとおり賀を免じた。
  • 永樂十四年(1416年)、吏部と翰林院に詔して耆儒を選んで皇太孫に侍らせようとした。楊士竒と蹇義が真っ先に儀智を推薦した。太子は「わたしはかつて李繼鼎を挙げて大いに誤り、悔いても及ばなかった。儀智はまことに端正な士だが、もう老いている」と言った。楊士竒は頭を下げて「儀智は学官から身を起こし、理に明るく正を守り、老いてはいても精神は衰えておりません。廷臣の中で老成にして正大なること、儀智に勝る者はありません」と述べた。
  • その日の午の朝、帝が太子を顧みて「皇太孫の講読に侍る人は得られたか」と問うと、太子は「禮部侍郎儀智を挙げる議がありますが、まだ決めておりません」と答えた。帝は喜んで「儀智は老いていても直言ができる。用いてよい」と言い、皇太孫の輔導を命じた。
  • 進講のたびに必ず繰り返し導き、心術を正すことを本とした。
  • 永樂十九年(1421年)、年八十で致仕し、家で没した。洪熙元年(1425年)、太子少保を追贈され、文簡と諡された。

儀銘――附伝の出自と郕王府長史

  • 末子の銘は字を子新という。
  • 宣宗が即位すると侍郎戴綸の推薦により行在禮科給事中に任じられた。宣德九年(1434年)、任期が満ちたとき、帝は儀智の旧来の労を思い、銘を修撰に改めた。
  • 正統三年(1438年)、『宣廟實録』の編修に加わり、完成すると侍講に移った。のち郕府長史に改まった。
  • 郕王が監國して午門で朝に臨んだとき、廷臣が王振を弾劾して叫び号び、人の声も聞き分けられぬありさまとなった。儀銘ひとりが膝の前に進み出て冠を脱いで奏し、王振の族を誅する令旨を下させた。人々の騒ぎはそれでようやく収まった。

儀銘――景帝朝

  • 景帝が即位すると征伐の諸大事を力めて賛助した。まもなく潛邸の恩により禮部右侍郎に任じられた。
  • 翌年、経筵官を兼ねた。帝は講幄に臨むたびに宦官に命じて金銭を地に投げ、講官に拾わせて「恩典」と称した。文臣で与った者は、内閣では高穀ら、外では儀銘と俞山・俞綱・蕭鎡・趙琬ら数人だけであった。
  • まもなく南京禮部尚書に進み、懐獻太子が立つと太子太保を加えられ、召されて兵部尚書兼詹事となった。
  • 蘇州・淮安の諸郡に雪が積もり、民の凍え飢えて死ぬ者が折り重なっていた。また沙灣の河の工事に山東・河南の九萬人を役し、民間に鉄器数萬具を課していた。儀銘は帝に請うて多くを寛減した。
  • 災異にちなんで、その消弭は天を敬い祖に法り、刑を省き斂を薄くし、費を節して人を愛することにあると述べ、『皇明祖訓録』を写して献じ、深く奨められ容れられた。
  • 没して忠襄と諡された。
  • 儀銘は若くして呉訥に学び、天性孝友にして平明率直、父の風があった。長子の海は錦衣衞百戸、末子の泰は郷試に挙げられて禮科給事中となったが、いずれも父の恩によって任じられたものである。