明史卷一百五十一 列傳第三十九 劉觀

出自と監察官歴任

  • 劉觀は雄縣の人。洪武十八年(1385年)の進士で、太谷縣丞に任じられ、推薦により監察御史に抜擢された。
  • 洪武三十年(1397年)、署左僉都御史に移ったが、事に坐して獄に下され、まもなく釈されて出て嘉興知府となった。父の喪で去った。
  • 永樂元年(1403年)、雲南按察使に抜擢されたがまだ赴かず、戸部右侍郎に拝せられた。
  • 永樂二年(1404年)、左副都御史に転じた。当時、左都御史の陳瑛は残忍苛酷、右都御史の吳中は寛大温和であったが、劉觀はその二人の間をなよなよと立ち回り、もっぱら顔色をうかがって取り入ることに努めた。
  • 永樂四年(1406年)、北京で宮室を造営するにあたり、劉觀は命を受けて浙江で木を採り、まもなく還った。
  • 翌年冬、帝は山西の旱魃のため劉觀に駅伝を馳せて赴かせ、木を採る軍民を解散させた。
  • 永樂六年(1408年)、鄭賜が没すると禮部尚書に抜擢され、十二月に刑部尚書の吕震と官を取り替えた。事に坐して皇太子の譴責を受けたが、帝は北京でこれを聞き、大臣に小過があっても辱めるべきではないとして、書を賜って太子を諭した。
  • 永樂八年(1410年)、都督僉事費瓛が涼州・永昌の叛いた羗を討つとき、劉觀に軍事の贊画を命じた。還って事に坐して本部の吏に謫された。永樂十三年(1415年)に職に復し、左都御史に改まった。
  • 永樂十五年(1417年)、河漕の浚渫を監督した。永樂十九年(1421年)、陝西を巡撫して官吏を考察するよう命じられた。

弋謙の一件と貪汚による失脚

  • 仁宗が位を継ぐと太子賔客を兼ね、ほどなく太子少保を加えられ、二つの俸を給された。
  • 当時、大理少卿の弋謙がしばしば事を論じたので、帝はその煩瑣を厭うた。尚書吕震・大理卿虞謙が意を迎えて弾劾したが、劉觀はさらに十四道の御史にその誣妄を論じさせた。これによって世論に卑しまれた。
  • 当時まだ官妓の禁がなく、宣德の初め、臣僚の宴楽は奢りを競い、歌妓が前に満ちていた。劉觀はひそかに賄賂を受け、諸々の御史もまた貪欲ほしいままで憚るところがなかった。
  • 宣德三年(1428年)六月、朝が終わったあと、帝は大學士楊士竒・楊榮を文華門に召して諭した。「祖宗の時、朝臣は謹み慎んでいた。ここ数年、貪り濁ることが風となっているのはなぜか」。楊士竒は「永樂の末にはすでにありましたが、いまはいっそう甚だしいのです」と答えた。楊榮は「永樂の時は方賔に過ぎる者はありませんでした」と言った。帝が「今日は誰が最も甚だしいか」と問うと、楊榮は「劉觀です」と答えた。また「誰が代われるか」と問うと、楊士竒と楊榮は通政使の顧佐を推薦した。
  • 帝はそこで劉觀を出して河道を視察させ、顧佐を右都御史とした。ここにおいて御史の張循理らが相次いで章を上げて劉觀および子の輻の贓汚不法の事を弾劾した。帝は怒って劉觀父子を逮え、弾劾の章を示した。劉觀が疏を上げて弁じたので帝はいよいよ怒り、廷臣の前後の密奏を出したが、その中には法を枉げて千金の賄賂を受けたものもあった。劉觀は引き伏し、錦衣衞の獄に下された。
  • 翌年、重刑に処されようとしたとき、楊士竒・楊榮がその死を宥すよう乞うたので、輻を遼東に謫戍とし、劉觀にこれに随行するよう命じた。劉觀はついに客死した。
  • 宣德七年(1432年)、楊士竒が風憲の官に考察させ、官庁の貪汚の者を奏して罷免することを請うた。帝は「そのとおりだ。もし劉觀を罷免していなかったら、風憲がどうして粛正されようか」と言った。

史論

  • 贊に曰く。成祖は茹瑺が太祖に仕えて功があったとして封じたが、これを考えても表れ出た事跡はない。史が漏らしたのであろうか。嚴震直の廣西における、張紞の雲南における治績の効果はきわだっている。王鈍・鄭賜は方伯・監司として声望と功績がかなり著しかったが、その晩節にはいずれも自ら振るうことができなかった。惜しいことである。郭資・吕震の徒は事を成す才はあったが、操行には取るところがない。李至剛の陰険さ、吳中・劉觀の汚職に至っては、なおさら論ずるに足りない。