明史卷一百五十一 列傳第三十九 方賔

出自と兵部尚書

  • 方賔は錢塘の人。
  • 洪武の時、太學生から兵部郎中を試された。建文年間、應天府の事を代行したが、罪に坐して廣東に戍った。茹常の推薦により召されて復官した。
  • 成祖が京師に入ると、方賔は侍郎劉儁らとともに迎え帰順し、特に用いられて兵部侍郎に進んだ。
  • 永樂四年(1406年)、劉儁が尚書として黎利を征討に出たので、方賔が部の事を執った。才幹があって事務に応じて滞らせず、性は鋭敏で上意をよく推し量ったので帝に知られたが、寵をたのんで貪欲ほしいままであった。
  • 永樂七年(1409年)、尚書に進み、北京に扈従して行在の吏部の事も兼ね掌った。
  • 翌年、北征に従い、學士胡廣・金幼孜・楊榮、侍郎金純とともに機密に与った。以後、帝が北巡するたびに方賔は扈従した。

北征の兵糧をめぐる死

  • 永樂十九年(1421年)、親征が議されたとき、尚書の夏原吉・吳中・吕震が方賔とともに、しばらく兵を休め民を養うべきだと議したが、まだ奏していないうちに、たまたま帝が方賔を召した。方賔が糧餉が足りないと述べ、夏原吉を召したところやはり足りないと答えた。帝は怒り、夏原吉を遣わして開平の糧を視察させ、まもなく召し還して獄に下した。
  • 方賔はちょうど靈濟宮の提調をしていたが、香を進めに来た宦官が帝の怒りを方賔に語った。方賔は恐れて首をくくって死んだ。帝には実は方賔を殺す意はなく、方賔の死を聞いてかえっていっそう怒り、その屍を戮した。