出自と成祖の親信
- 李至剛は名を銅といい、字をもって通った。松江華亭の人。
- 洪武二十一年(1388年)、孝廉に挙げられ、選ばれて懿文太子に侍し、禮部郎中に任じられた。累に坐して辺境に謫戍されたが、まもなく召されて工部郎中となり、河南右參議に移った。黄河が汴の堤を決したとき、李至剛は王府の積み木を借りて筏を作り渡ることを議した。
- 建文年間、湖廣左參議に転じたが、事に坐して獄に繫がれた。成祖が即位すると左右がその才を称えたので、右通政とされ、『太祖實録』の編修に加わった。朝夕帝の左右にあって洪武年間の事を語り、たいそう親しみ信じられた。まもなく禮部尚書に進んだ。
- 永樂二年(1404年)、皇太子を冊立すると、李至剛は左春秋坊大學士を兼ねて東宮の講筵に侍り、解縉と前後して進講した。
- のちまた事に坐して獄に下され、久しくして釈され、禮部郎中に降された。解縉が中傷したことを恨んだ。解縉が獄に下されると供述が李至剛に及び、やはり坐して十余年繫がれた。仁宗が即位して釈され、また左通政とされた。
- 給事中梁盛らが、李至剛ら十余人は大行皇帝の崩御に当たって公署に宿らず酒を飲み肉を食べ、平然として悲しむ様子がなかったと弾劾した。帝は李至剛が先朝の旧人であることを思い、出して興化知府とした。時に年すでに七十。二年してその官のまま没した。
佞諛と解縉との確執
- 李至剛は人となりが機敏で、繁雑な事務をよく処理し、こじつけて話を合わせるのが巧みであった。真っ先に北平に都を建てる議を発し、また事を論ずる者が私心を挟むことを禁ずるよう請い、成祖はこれに従った。
- 帝の心を得てからは、もっぱら佞諛を事とした。かつて太祖の忌日には宗の制にならって僧道に経を誦えさせるべきだと述べ、山東で野蠶が繭を作ると賀を請い、陝西が瑞麥を進めると百官を率いて賀したが、帝はいずれも聴かなかった。
- 宦官が真臘に使いしたとき従者三人が逃亡し、国王が国中の三人でこれを補った。帝が送り返すよう命じたとき、李至剛は「中国の三人がかの国にひそかに隠されているのではないと、どうして分かりましょう」と述べた。帝は「朕は至誠をもって内外に接している。どうして偽りを推し量る必要があろう」と言った。建言するところの多くは用いられなかった。
- 妻の父が重い法に触れたので李至剛が免除を乞うたところ、帝は「獄の軽重を外の人がどうして知るのか」と言った。李至剛が「都御史黄信が臣に申しました」と答えると、帝は怒って黄信を誅した。
- はじめ李至剛は解縉と交わりがたいそう厚かった。帝が大臣の姓名十人を書き、解縉にその人品を記させたところ、李至剛は端正でないと述べた。解縉が廣西に謫されると、李至剛はその怨望を奏し、交阯に謫を改めさせた。