出自と成祖への帰順
- 吕震は字を克聲といい、臨潼の人。
- 洪武十九年(1386年)、郷挙により太學に入った。当時、太學生を派遣して郡邑の土地を調べ貢納を均しくさせたが、吕震は檄を承けて兩浙に赴き、還って奏したところ帝の意にかない、山東按察司試僉事に抜擢された。入って戸部主事となり、北平按察司僉事に移った。
- 燕の兵が起こると吕震は成祖に降り、世子に侍して留守するよう命じられた。
- 永樂の初め、真定知府に移り、入って大理寺少卿となった。永樂三年(1405年)、刑部尚書に移り、永樂六年(1408年)、禮部に改まった。
- 皇太子が監國したとき、吕震の婿の主事張鶴が朝参で儀を失した。太子は吕震のゆえにこれを宥した。帝はこれを聞いて怒り、吕震および蹇義を錦衣衞の獄に下したが、のちに復職させた。
- 仁宗が即位すると太子少師を兼ねるよう命じられ、まもなく太子太保に進んで禮部尚書を兼ねた。宣德元年(1426年)四月に没した。
喪礼の議と学識の欠如
- 吕震はかつて三度命を奉じて親を見舞い、二度とも關中の飢饉に遭ったので、担当の役所に粟を出して賑わせ、還ってからそれを報告した。
- しかし学術がなく、禮官となっても大体を知らなかった。成祖が崩じ、遺詔で二十七日で縗服を脱ぐこととなったが、その期日になると吕震は群臣がみな烏紗帽・墨角帯に改めるべきだと建議した。近臣が「仁孝皇后が崩じたとき、縗服を脱いだのち太宗は素冠・布腰絰に改められました」と言うと、吕震は勃然と色をなし、自分に逆らうものとして謗った。仁宗は吕震の議を退け、素冠・布腰絰に改めさせた。
- 洪熙元年(1425年)、群臣を分遣して嶽・鎮・海・瀆および先代帝王の陵を祀らせたとき、吕震は周の文王・武王・成王・康王を祀り、ついでに母を見舞うことを願い出た。ところが私に妻の喪の柩を香や帛と同じ車に載せ、太廟を祀って斎戒すべきときに西番の僧舎で酒を飲んで大酔し、帰って一夜のうちに没した。
佞諛と権勢
- 吕震の人となりは佞諛で陰険であった。
- 永樂の時、曹縣が騶虞を献じ、榜葛剌國・麻林國が麒麟を進めたので、吕震が賀を請うた。帝は「天下が治まって安らかであれば、麒麟がなくとも何の害があろう」と言った。
- 貴州布政使の蔣廷瓚が「帝が北征から凱旋する詔が思南に至ったとき、大巖山で萬歳を呼ぶ声が三度した」と述べた。吕震が「これは山川が霊を現したものです」と言うと、帝は「山谷の声は空虚が相応じるもので、理としてあり得よう。吕震は国の大臣でありながらその非を弁ぜず、さらにそれに乗じて媚びを進めようとする。これが君子の君に仕える道か」と言った。
- 郎中の周訥が封禪を請うたとき、吕震が力めてこれに賛成したが、帝はその誤りを責めた。吕震はしばしば面と向かって斥けられたが、ついに改めることができなかった。
- 金水河・太液池の氷が楼閣や龍鳳・花卉の形をなしたので、帝が群臣を召して観せると、吕震はそれにちなんで賀を請うたが許されなかった。また隆平侯張信が太和山に五色の雲が現れたと奏し、侍郎胡濙が瑞光・榔梅・靈芝を図にして上したときも、吕震は群臣を率いて前後して表を奉って賀した。
- 成祖がはじめ北京を巡幸するとき、太子の留守の事宜を定めるよう命じた。吕震は、常事は太子の処分に任せ、章奏は南京の六科に分けて貯え、還幸の日にまとめて奏することを請い、可とされた。永樂十一年(1413年)・十四年(1416年)にも吕震は再び前の制どおりにするよう請うた。
- 永樂十七年(1419年)、帝は北京にあってある事について章奏を求めた。侍臣が「南京に留めてあります」と言うと、帝は吕震の前の請いを忘れて「帝への奏は行在に達すべきである。まさか禮部に別の議があるのか」と言い、吕震に問うた。吕震は罪を恐れて「そのようなことはありません。奏章は行在に達すべきです」と答えた。三度問われても同じように答えた。そこで章奏をほしいままに留めたとして右給事中の李能を殺した。人々は李能が冤であることを知っていたが、吕震を畏れて誰も言おうとしなかった。
- 尹昌隆の禍も吕震が仕組んだものである。事は昌隆の伝に詳しい。
- 夏原吉・方賔が北征の兵糧不足を述べて罪を得たとき、吕震に戸部・兵部の事を兼領させた。吕震もまた自ら危ぶんだ。帝は官校十人にこれに随わせ、「もし吕震が自ら命を絶ったら、汝ら十人は皆死ぬ」と言った。
- 吕震は精力があり、よく記憶し、才はその人となりを補うに足りた。およそ奏事のとき、他の尚書は皆副本を手にし、また左右の侍郎と交互に奏したが、吕震は三部を兼ねて奏牘がいっそう多くなっても、みな自ら奏し、侍郎を加えなかった。事情は込み入って千々万々にわたるのに、そらんじて流れるようで、誤ったことがなかった。
- かつて北狩に扈従したとき、帝が砂漠の中に立つ碑を見て従臣を率いてその文を読んだ。一年後、諸々の文学の臣と語る間にその碑に及び、禮部に官を遣わして書き写させるよう詔した。吕震は「使いを遣わすまでもありません」と言い、帝の前で筆と紙を請うてこれを書き出した。帝がひそかに人をやってその拓本を取らせ校合させたところ、一字も脱落や誤りがなかった。
- 子の熊について、宣宗が立ったばかりのころ、吕震はしばしば帝の前で官を乞い、涙を流すほどであった。帝はやむを得ず兵科給事中に任じた。