明史卷一百五十一 列傳第三十九 郭資

出自と靖難への帰順

  • 郭資は武安の人。洪武十八年(1385年)の進士で、累進して北平左布政使となり、ひそかに成祖に付いていた。
  • 兵が起こって張昺らが死ぬと、郭資は左參政孫瑜・按察司副使墨麟・僉事吕震とともに率先して降り、萬歳を呼ばわった。成祖は喜び、世子を輔けて留守させた。成祖が三年間転戦する間、郭資は軍糧の供給を主管した。

戸部尚書と北京の経営

  • 成祖が即位すると郭資を戸部尚書として北平布政司を掌らせた。北京が建てられると行部尚書に改まり六曹の事を統べ、都城が定まると戸部に改まった。
  • 当時、城郭・宮殿を営み官吏を置き、また塞外に出て北征するなど工役がしきりに起こったが、郭資は職務を挙げて廃れる事がなかった。
  • 仁宗が立つと旧来の労により太子賔客を兼ね、まもなく老病により太子太師を加えられ、敕を賜って致仕した。
  • 宣德四年(1429年)、再び起用されて戸部尚書となり、いよいよ勤勉に職を奉じた。宣德八年(1433年)十二月に没した。年七十三。湯陰伯を追贈され、忠襄と諡された。子の佑を戸部主事に任じた。
  • 郭資は銭穀を治めることに有能との評があった。仁宗がかつてこれを楊士竒に問うたところ、「郭資は性が強毅で、人が私事で頼み込むことができません。しかし租を免ずる詔がしばしば下ってもこれを奉行せず、陛下の恩沢が行き渡らないようにしているのは郭資です」と答えた。