明史卷一百五十一 列傳第三十九 張紞

出自と雲南の統治

  • 張紞は字を昭季といい、富平の人。
  • 洪武年間、明經に挙げられて東宮侍書となり、累進して試左通政となった。
  • 洪武十五年(1382年)、雲南が平定されると、出て左參政となった。参内して辞するとき、帝は詩二章を賦して賜った。左布政使を歴任した。
  • 洪武二十年(1387年)春、入覲したところ治績が天下第一であったので、特に吏部に考課をさせず、璽書を賜って言った。「さきに西南を討ち平らげ、官に撫し守ることを命じたが、汝紞は実に先んじて赴いた。いま五年、諸蠻は聴き従い、誠信が互いに通じ、よくその職を恭しく務めた。考課を待たずとも朕はその功が天下十二牧の上に出ることを知る。ゆえに汝の績を嘉し、汝になお滇南を治めさせる。行って謹めよ」。
  • 張紞は滇にあること十七年。土地・貢賦・法令の条格はみなその裁定するところであり、民間の喪祭・冠婚もことごとく制を定めて風俗を変えることに努めた。滇の人はこれに従った。朝士の董倫・王景らがその地に謫されたときも、皆礼をもって遇した。

吏部尚書と自死

  • 惠帝が即位すると召されて吏部尚書となった。詔して遺逸の士を集めて闕下に召したが、張紞が選んで用いた者はみなその才にかなっていた。
  • たまたま『太祖實録』を修めることになり、翰林の編纂官を試験させたが、張紞は楊士竒を第一と奏した。楊士竒はこれによって名を知られた。
  • 成祖が京師に入り、中朝の姦臣二十九人を録したが、張紞もそこに含まれていた。茹瑺の言により宥され、なお元の職のままとされた。
  • ほどなく帝が朝に臨んで嘆じ、建文の時に官制を改めた者を咎め、張紞および戸部尚書王鈍に職務を解いて毎月半俸を給し京師に住まわせた。張紞は恐れて吏部の後堂で首をくくった。妻子もまた水に投じて死んだとも言われる。
  • 張紞が吏部にあったとき、官制の変更にあたって小吏の張祖が「高皇帝が法を立て制を創られた規模は甚だ遠大です。いまこれを改めても勝るとは限らず、いたずらに人の口の端に上るだけです。公が力めてこれを持ちこたえられますよう」と言った。張紞は用いることができなかったが、心中で張祖を賢しとし、奏して京衞知事とした。のちに張紞が死んだとき、属吏で遺骸を見ようとする者もなかったが、ただ張祖だけがその葬儀を取り仕切った。
  • 世間では、燕の軍が京に入ると張紞はただちに首をくくって死に、嚴震直は使いを奉じて雲南に至って建文君に遇い、悲しみのあまり金を呑んで死んだと伝えるが、国史に照らせばそれは事実ではない。

毛泰亨――附伝

  • 当時、毛泰亨という者があり、建文の時に吏部侍郎として張紞と同僚であった。張紞が死ぬと毛泰亨も死んだ。