出自と糧長からの登用
- 嚴震直は字を子敏といい、烏程の人。
- 洪武の時、富民から糧長に選ばれ、毎年一萬石の糧を京師に運んで期限に遅れたことがなかった。帝はその才を認めた。
- 洪武二十三年(1390年)、特に通政司參議に任じられ、再び移って工部侍郎となった。
- 洪武二十六年(1393年)六月、尚書に進んだ。当時、朝廷は造営の事にあたり、天下の工匠を京師に集めたが、あわせて二十余萬戸にのぼった。嚴震直は一戸につき一人を役し、その姓名と職種を官に記録させ、役があれば台帳によって順番に召すよう請うた。役に就く者はこれを便利とした。
- 郷民がその弟や甥の不法を訴えたので、帝は嚴震直に取り調べさせた。獄が整って上ったところ、帝は偽りがないと認め、その弟・甥を赦した。
- のち事に坐して御史に降されたが、しばしば冤罪の獄をすすいだ。
安南への使いと水利・鹽法
- 洪武二十八年(1395年)、龍舟を作る件について、嚴震直に尚書任亨泰とともに安南に諭旨を伝えさせた。還って利害を条を分けて奏し、帝の意にかなった。
- 五千余丈を□(底本欠字)し、渼潭および龍母祠の土堤百五十余丈を築いた。また中江の石堤をさらに高くし、陡閘三十六を設け、舟の妨げとなる灘の石を削り取ったので、漕運はすべて通じた。帰って奏すると帝は善しとした。
- 洪武三十年(1397年)二月、疏を上げて述べた。廣東はもと鹽八十五萬余引を運んで廣西で商人を募って買い取らせていたが、いま一年に運ぶのは十分の一にすぎない。三十萬八千余引を分けて廣東に貯え、別に商人を募って廣西の糧の乏しい衞所に粟を入れさせて鹽を支給し、廣東ではこれを江西の南安・贛州・吉安・臨江の四府で売らせるのが便宜である、と。帝はこれに従った。廣東の鹽が江西で流通するのはこれに始まる。
- その年四月、右都御史に抜擢され、まもなくまた工部尚書となった。
- 建文の初め、年老いたとして致仕したが、京師に留め置かれた。成祖が即位するとすぐに召見し、嚴震直に元の官のまま山西などの地を巡視させた。澤州に至って病を得て没した。