出自と戸部の建議
- 古朴は字を文質といい、陳州の人。
- 洪武年間、太學生として郡県の田賦の図籍を整理し、還って五軍斷事に隷して刑を治めた。自ら家が貧しいので禄を得て母を養いたいと述べたところ、帝はこれをよみして工部主事に任じた。母が没すると官が舟を給して帰葬させ、服喪が終わると兵部に改まり、累進して郎中となった。
- 建文三年(1401年)、兵部侍郎に抜擢された。成祖が即位すると戸部に改まった。
- 永樂二年(1404年)、古朴が奏した。先に詔を奉じて江西・湖廣および蘇松の諸府に北京への糧の輸送を命じたが、いまいずれも水害に苦しみ運送が困難であると聞く。一方、北京の諸郡は幸いにも豊作である。鈔を発して役所に価を増して買い集めさせ、南方からの運送を減らしたい、と。容れられた。
- 北京の造営にあたり江西で木を採るよう命じられたが、民を憐れんだとして褒められた。
- 永樂七年(1409年)、帝が北巡し皇太子が監國すると、召し還されて夏原吉を助けて戸部を治めた。
仁宗・宣宗朝と劉良の誣告
- 仁宗が即位すると南京通政使に改まり、翌年その地で戸部尚書に拝せられ、畿内の田賦を督するために出た。師逵が病むとその代わりを命じられた。宣德三年(1428年)二月、在職のまま没した。
- はじめ戸部主事の劉良は身を慎まず、宦官に上考(人事評価の最上位)を求めた。古朴が許さなかったので、劉良は古朴の罪を誣告した。古朴は逮えられたが、成祖はその誣であることを察して釈した。後日、吏部が劉良に誥を与えるよう奏したところ、仁宗は「この者はもとより行いがなく、しかもかつて大臣を誣告した。与えてはならぬ」と言った。劉良は果たしてのちに贓罪で身を滅ぼした。
- 古朴は朝にあること三十余年、郎署から尚書に至るまで確固として守るところがあり、私的な請託を通さなかった。右都御史の向瑶とともに清介をもって称された。
向寶――附伝
- 寶は字を克忠といい、進賢の人。
- 洪武年間、進士として兵部員外郎に任じられ、九年間過失がなく通政使に抜擢されたが、奏対が巧みでないとして力めて辞し、應天府尹に改まった。
- 建文の時、事に坐して廣西に謫された。成祖が即位すると召されて復職したが、また事に坐して獄に下され、兩浙監運判官に降された。
- 仁宗が東宮にあったときその清廉を知っており、即位すると召して右都御史兼詹事とし、両方の俸を給した。まもなく詔に応じて八事を陳べ、採るべきものが多かった。
- 宣德の初め南京に改まり、宣德三年(1428年)に入覲したところ、帝はその老いを憐れんで致仕を命じ、帰る途中で没した。
- 瑶は文学があり、寛厚で民を愛し、身を持することは清廉正直であった。しばしば困厄に遭ったが少しも変わらず、平生の言葉は利に及ばなかった。仕えること四十余年、没した日、家財はうら寂しいものであった。