明史卷一百五十 列傳第三十八 金忠

出自と卜占による燕王への接近

  • 金忠は鄞の人。若くして書を読み、易による卜占を能くした。
  • 兄が通州に戍る任にあって逃亡したため、金忠が代わって戍ることになったが、貧しくて赴けなかった。人相見の袁珙が資金を出して助けた。
  • 到着すると兵卒の籍に編入され、北平の市で卜を売った。的中が多く、市の人々は神と伝えた。僧道衍が成祖に推薦した。
  • 成祖が挙兵しようとしたとき、病と称して金忠を召し卜わせたところ、印を鋳て軒に乗る卦を得た。金忠は「この象は貴きこと言うべからず」と言った。これより燕府に出入りするようになった。
  • 常に占うところによって大事を挙げるよう勧め、成祖は深くこれを信じた。

靖難と兵部尚書

  • 燕の兵が挙がると、成祖は自ら官属を任じ、金忠を王府紀善として通州を守らせた。南軍がしばしば城を攻めたが落とせなかった。
  • のち左右に召し置かれ、疑いがあれば必ず問うたが、その術はいよいよ験があり、また時に応じて謀を進めたので、右長史に拝せられ戎務を助け、謀臣となった。
  • 成祖が帝を称すると、佐命の功を論じて工部右侍郎に抜擢され、世子を助けて北京を守らせた。まもなく召し還されて兵部尚書に進んだ。

立太子と東宮の擁護

  • 帝の挙兵のとき次子高煦が従軍して功があり、太子とすると約されていた。ここに至って淇國公邱福らが高煦の党となり、これを立てるよう帝に勧めた。ひとり金忠だけが不可とし、帝の前で古の嫡庶の事例を数え挙げた。帝は屈服させられず、ひそかに解縉・黄淮・尹昌隆に告げたところ、解縉らも皆金忠の言を是とした。かくして世子が皇太子に立てられ、金忠は東宮の輔導官となり、兵部尚書のまま詹事府詹事を兼ねた。
  • 永樂六年(1408年)、あわせて皇太孫の輔導を兼ねるよう命じられた。
  • 帝が北征するとき、金忠は蹇義・黄淮・楊士竒とともに残されて太子の監國を助けた。
  • このころ高煦の嫡を奪おうとする謀はいよいよ急となり、根も葉もない言葉で太子を讒した。
  • 永樂十二年(1414年)、北征から還ると東宮の官属をことごとく召して獄に下した。金忠は勲旧であるとして罪を問われなかったが、ひそかに太子の事を調べるよう命じられた。金忠は「何もありません」と答えた。帝が怒ると、金忠は冠を脱ぎ頭を地につけて涙を流し、連坐をも辞さぬとしてこれを保証した。このおかげで太子は廃されずにすみ、宮僚の黄淮・楊溥らもこれによって助かった。
  • 金忠は兵卒から身を起こして高位に至り、たいそう親任されたが、顧問に応じては知ることを言わぬことがなく、しかも慎重で機密を漏らさなかった。同僚に対しても二股をかけず、退いては常に人に譲った。
  • 翌年(永樂十三年、1415年)四月に没した。駅伝を給されて帰葬し、役所に祠と墓を営ませ、その家の賦役を免じた。洪熙元年(1425年)、榮禄大夫・少師を追贈され、忠襄と諡された。子の達を翰林檢討に任じた。達は剛直で敢えて発言し、長蘆都轉運使にまで至った。

兄の華

  • 金忠には兄の華があり、志節を持していた。金忠が通州を守って功があったとき、恩を推して官に就けようとしたが辞して受けなかった。かつて召されて金や綺を賜ったがこれも受けなかった。成祖は迂遠な老人と見なして帰らせた。
  • ある日『宋史』を読んで王倫が秦檜に附いた事のくだりに至り、声を放って長く嘆じたまま逝った。里中では白雲先生と称した。