出自と諸部歴任
- 趙羾は字を雲翰といい、夏の人で祥符に移った。
- 洪武年間、郷挙から太學に入り、兵部職方司主事に任じられた。天下の要害・阨塞と屯戍の適地を図に描いて奉り、帝はその才を認めて員外郎に移した。
- 建文の初め、浙江參政に移り、海賊を捕らえる策を立てて功があった。
- 永樂二年(1404年)、交阯に使いし、帰って奏したところ帝の意にかない、刑部侍郎に抜擢された。のち工部に改まり、さらに禮部に改まった。
- 永樂五年(1407年)、尚書に進み、華蓋殿で宴を賜り、その膳の料理を下げて母に送った。
朝鮮使臣の一件と晩年
- はじめ趙羾はしばしば言官に弾劾されたが、帝は問わなかった。
- 永樂九年(1411年)秋、朝鮮の使臣が帰国するにあたり、慣例では賜与があったが、趙羾はこれを奏上しなかった。帝は怒り「これでは朕に遠人の心を失わせることになる」と言って獄に下した。まもなく釈放され、隆慶・保安・永寧の諸州県の建設を監督させられた。新たに集まった民を撫し、民はその生業に安んじた。
- 永樂十五年(1417年)、母の喪に遭ったが起復して兵部尚書に改まり、もっぱら塞外の兵事を扱った。帝の北征では兵糧輸送に手腕を示した。
- 仁宗が位を継ぐと南京刑部に改まった。宣德五年(1430年)、御史張楷が趙羾および侍郎俞士吉の怠慢・放縦を弾劾し、召し出されて致仕を命じられた。
- 趙羾の性は精密機敏で、五朝に仕えて卿の列に位したが、身の処し方は寒素の士のようであった。正統元年(1436年)に没し、年七十三。