父子祺の事績
- 胡廣は字を光大といい、吉水の人。父の子祺は名を壽昌といい字をもって通った。
- 陳友諒が吉安を陥れ、太祖が兵を遣わして回復したとき、脅されて従った者千余人を殺そうとした。子祺は駆けつけて将帥に謁し、力を尽くして不可であると説き、免れさせた。
- 洪武三年(1370年)、文学によって選ばれて御史となり、上書して關中に都を置くことを請うた。帝は善しとして太子を遣わして陝西を巡視させたが、後に太子が薨じて実現しなかった。
- 子祺は廣西按察僉事に出て、彭州知事に改まり、赴任した先々で冤獄を平らげ、淫祀を毀ち、廃れた堰を修復したので民は大いに徳とした。延平知府に遷り、任地で卒した。胡廣はその次子である。
対策第一と成祖への帰附
- 建文二年(1400年)の廷試のとき、ちょうど燕を討伐中であった。胡廣の対策に「親藩の陸梁により人心が動揺している」の語があり、帝は自ら胡廣を第一に抜擢し、靖の名を賜わり、翰林修撰を授けた。
- 成祖が即位すると、胡廣は解縉とともに迎えて帰附し、侍講に抜擢され、侍讀に改まり、廣の名に復し、右春坊右庶子に遷った。
- 永樂五年(1407年)、翰林學士兼左春坊大學士に進んだ。
北征への扈従
- 帝の北征には楊榮・金幼孜とともに従い、たびたび帳殿に召されて対え、夜半に及ぶこともあった。山川の要害を過ぎるときは馬を立てて議論した。行軍でやや後れると、すぐに騎兵を四方に遣わして探させた。
- かつて道に迷い、衣を脱いで鞍無しの馬で河を渡ったとき、水は馬の腰から上まで没した。帝は「まことに苦労であった」とねぎらった。
- 胡廣は書に巧みで、石に刻するたびに書かせられた。
- 十二年(1414年)の再度の北征には皇長孫が従い、胡廣と楊榮・金幼孜に軍中で経史を講じさせた。
- 十四年(1416年)、文淵閣大學士に進み、兼職は従来どおり。
封禅の議と人となり
- 帝が烏斯藏の僧を召して法会を行い、高帝・高后のために福を薦めさせたとき、種々の祥瑞・異象が見えたと言われた。胡廣はそこで「聖孝瑞應頌」を献じ、帝はこれを仏曲に綴らせて宮中で歌い舞わせた。
- 禮部郎中の周訥が封禅を請うと、胡廣はその不可を言い、ついに許されなかった。胡廣は「却封禪頌」を上り、帝はいっそう親愛した。
- 胡廣は緻密で口が堅く、帝の前で自分の職掌や職務について述べたことも、退出後に人に告げたことがなかった。当時の人は後漢の胡廣になぞらえた。しかし大局をよくわきまえてもいた。母の喪に奔って還朝したとき、帝が百姓は安らかかと問うと、「安らかです。ただ郡県が建文のときの姦党を徹底的に追及し、遠縁の親族にまで及んでいるのが民の害となっております」と答え、帝はその言を容れた。
- 十六年(1418年)五月に卒す。年四十九。
- 文臣が諡を得るのは胡廣に始まる。喪が還って南京を過ぎるとき、太子が祭を致した。翌年、その子の穜を翰林檢討に任じた。仁宗が立つと胡廣に少師を加贈した。