出自と封爵
- 陳賢は壽州の人。初め太祖に従って功を立て、雄武衞百戶を授かった。西番・雲南の征討に従い、北征では捕魚兒海まで至り、いずれも功があった。燕山右䕶衞指揮僉事を歴任した。
- 燕の軍が起こると諸将に従って転戦し、つねに敵陣に突入して堅陣を陥れ、軍中でその驍勇を称された。都督僉事に累遷した。
- 永樂元年(1403年)四月、成祖は功臣の封賞に漏れがあるのを懸念し、邱福らに協議させた。邱福らは「都督僉事李彬の功は房寛に劣らず、涇國公の子の懋、金鄉侯の子の通はいずれもまだ襲爵しておらず、陳言・張興・陳志・王友の功は劉才らに匹敵する」と言った。そこで李彬を豐城侯に封じ、懋・通と陳言ら四人はみな伯に封じ、禄はいずれも千石とした。陳賢は榮昌伯に封ぜられた。
- 八年(1410年)、神機將軍に充てられて北征に従った。十三年(1415年)十一月に卒した。
子の智
- 子の智はさきに功を立てて常山右䕶衞指揮となり、父の爵を嗣いだ。
- 宣徳中、參將として征夷將軍の印を佩び交阯を鎮守したが、臆病で戦いに堪えず、また都督方正と仲違いした。黎利の勢いが盛んで防ぐことができず敗れ、爵を奪われて為事官に充てられ、王通に従って功を立てた。
- まもなく土地を棄てて還ったことにより下獄したが釈された。正統の初めに指揮使に復した。