明史卷一百四十六 列傳第三十四 郭亮

永平の降伏と守城

  • 郭亮は合肥の人。永平衞千戶であった。燕が平定して永平に至ると、指揮の趙彞とともに城を挙げて降り、そのままその守りを命ぜられた。
  • 当時、燕の軍は起こったばかりで、まず周辺の郡邑を平定した。居庸・懐來を落とすと山後の諸州はみな下ったが、永平は山海關に接して遼東を隔てる要地であり、ここが降ったことで北平はいっそう憂いが無くなった。成祖はそこで南下して耿炳文を真定に破った。
  • のち遼東鎮將の江陰侯吳髙・都督楊文らが永平を囲んだが、郭亮の拒守はきわめて堅く、援軍が到着して内外から挟撃し、吳髙は退走した。まもなく髙は讒言に遭って罷免され、楊文が代わって将となり再び衆を率いて攻めてきたが、郭亮は劉江と合撃してこれを大敗させた。
  • 都督僉事に累進し、成祖が即位すると守城の功により成安侯に封ぜられ、禄は千二百石、世襲は伯爵。

晩年と子孫

  • 永樂七年(1409年)、䦕平を守ったが、身持ちが慎まないと聞こえた。二十一年(1423年)三月に卒し、興國公を贈られ、諡は忠壯。妾の韓氏は首をくくって殉じ、淑人を贈られた。
  • 子の晟は本来伯を嗣ぐべきところ、成宗が特に侯を嗣がせた。宣徳五年(1430年)、扈従の駕に先んじて帰ったことに坐して爵を革されたが、まもなく復した。子が無く、弟の昂が伯を嗣ぎ、爵は明の亡ぶまで伝わった。

趙彞(附)

  • 趙彞は虹の人。洪武のとき燕山右衞百戶となり、傅友徳の北征に従って宣府・萬全・懐來に築城し、永平衞指揮僉事に抜擢された。
  • 燕に降り、諸戦を経ていずれも功があり、都指揮使に累遷した。成祖が帝を称すると忻城伯に封ぜられ、禄は千石。
  • 永樂八年(1410年)に宣府を鎮守し、かつて北征に従ったが、糧餉を盗んだ罪に坐して下獄し、赦された。
  • まもなく呂梁洪の急流が険しいので、趙彞に徐州を鎮めて経理させた。また運丁を擅殺し官糧を盗んだとして都御史李慶に弾劾され、法司に論治を命ぜられたが、また赦された。
  • 仁宗が立つと召還され、宣徳の初めに卒した。子の榮が嗣ぎ、数代を伝えて之龍に至った。之龍は崇禎の末に南京の協守に当たり、大清の兵が江南に下ると迎えて降った。