蘇州知府としての治績
- 姚善は字を克一、安陸の人。もとの姓は李。洪武年間に郷挙から祁門縣丞を歴任し、廬州・重慶二府の同知を務め、三十年(1397年)に蘇州知府に遷った。
- はじめ太祖は呉の風俗が奢侈で分に過ぎているとして厳しく法で縛ろうとしたが、悪賢い者はかえって法の長短を突いて互いを訴え合った。善は方針を改めて大体を守り、細かなことを厳しく取り締まらなかったので、訴訟はやんだ。呉中は大いに治まった。
- 身を低くして士に接するのを好み、隠士の王賔・韓奕・俞貞木・錢芹らを敬い礼遇し、毎月朔日に學宮で会合した。芹を上座に迎えて経義について質そうとしたところ、芹は「これは今の急務ではない」と言った。善が畏まって立ち上がって問うと、芹は一冊を授けた。見ればすべて守禦の策であった。
勤王と死
- 当時すでに燕兵は南下しており、善は密かに鎮江・常州・嘉興・松江の四郡の守と結んで民兵を訓練し備えとし、芹を朝廷に薦めて行軍斷事に任じさせた。
- 善はまもなく京師に至った。折しも朝廷は燕王の上書を受けて齊泰・黄子澄を外に貶していたが、善は貶すべきでないと述べ、二人はふたたび召し戻された。
- 建文四年(1402年)、詔によって蘇州・松江・常州・鎮江・嘉興の五府の兵を督して勤王することになったが、兵がまだ集まらないうちに燕王は京師に入った。
- そのとき子澄は善のもとに身を隠し、ともに海路で兵を挙げようと約した。善は辞退して、「公は朝臣であるから行って兵を集め復興を図るべきだ。私は土地を守る身で、城と存亡をともにするだけだ」と言った。子澄が去ったのち、善は麾下の許千戸という者に縛られて差し出され、屈せずに死んだ。年四十三。子の節ら四人はみな流刑に処された。
錢芹
- 錢芹は字を繼忠、若いころから変わった節操を好んだ。元末に諸將に働きかけたが用いられなかった。
- 洪武の初めに大都督府椽に召され、中山王に従って北平を出て大漠まで至り、還って職を解かれ、家に居ること二十年、貧に甘んじて道を楽しんだ。
- 善の推薦で起用され、李景隆に従って北へ行き、上奏のため入京する途中で病に倒れた。臨終に際してもなお兵事について箇条書きの意見を上った。年七十三。