明史卷一百四十二 列傳第三十 陳彦回

流謫からの出発

  • 陳彦回は字を士淵、蒲田の人。父の立誠は歸安縣丞のとき讒言によって死罪とされた。彦回は雲南へ流され、従った家人の多くは道中で死んだ。蜀に至るころには彦回と祖母の郭だけが残っていた。
  • 恩赦に会ったが赦免されず、護送の者が憐れんで放してくれた。貧しくて帰郷できず、同郷の知縣黄積良を頼って黄姓を名乗った。

知縣から徽州知府へ

  • 長くたって、閬中教諭の嚴徳政の推薦で保寧訓導に任じられ、任期を終えて京に至ると召見され、平江知縣とされた。
  • 一年余りで太祖が崩じ、彦回は入って哭した。さらに給事中の楊維康の推薦で徽州知府に抜擢された。
  • 建文元年(1399年)、政績優良として上賞を受けた。祖母の郭が没して官を去るべきところ、百姓が京師まで走って留任を乞うた。彦回は喪服のまま闕下に赴き、自ら事情を申し述べて本姓に復することを願い出た。
  • 彦回が雲南に流されたとき、弟の彦囦も遼東に流されていた。ここに至って詔で彦囦の謫籍が除かれた。彦回は続けて喪を終えることを願ったが許されず、郭を徽城の北十里、北山の南側に葬り、しばしば墓の下に赴いて哀しく哭したので、人々はそこを「太守山」と呼んだ。
  • かつて百姓に向かって泣いて言った。「私は罪人だ。以前は亡命して他姓を冒した。祖母が生きていたので、自首すれば罪を得ると恐れ、二十年耐え忍んだ。今、祖母が没した以上、自ら死を請うべきである。主上が特に私を赦されたのだから、最後は死をもって国に報いるほかない」と。
  • 燕兵が京師に迫ると、彦回は義勇の兵をまとめて救援に赴いたが、まもなく捕らえられ、械につながれて京に送られ、死んだ。

張彦方

  • 張彦方は龍泉の人。はじめ給事中となり、親を養うのに都合がよいようにと願って樂平知縣に改められた。
  • 勤王の詔に応じて配下を率いて湖口に至ったが捕らえられ、械につながれて樂平に送られて斬られ、首は譙樓に晒された。暑い時季だったのに蠅一匹たからず、十日を経ても顔は生きているような色をしていた。人が密かに清白堂の後ろに葬った。

周繼瑜(松江同知)

  • 同じころ勤王のために死んだ者に松江同知がいる。その死にざまはとりわけ壮烈だったという。同知の姓名は分からないが、一説に周繼瑜だという。
  • 勤王の詔が下ると榜を出して義勇を募って救援に入らせ、大義を極言して人心を動かし、あわせて北平の兵が恩に背き道に悖ると斥けた。械につながれて京に送られ、市中で磔にされた。

史論

  • 贊に曰く。燕師が南に向かったとき、続けて二人の大將を破り、その鋭鋒は当たるべからざるものであった。鐵鉉は書生の身で齊魯の間に力を尽くして防ぎ、しばしば燕の軍勢を挫いた。もし耿炳文・李景隆と立場を入れ替えていたなら、天下の事はどうなっていたか分からない。
  • 張昺・謝貴・葛誠は燕の膝元でこれを図ったが事は成らず、宋忠・馬宣は東西で相次いで敗れ、瞿能ら諸將は勝利を目前にして戦死した。燕兵はついに長駆して南下した。
  • 姚善・陳彦回のたぐいは、大勢がすでに去ったあとに郡邑の兵で奮い立って拒もうとした。これこそ黄鉞のいう「兵が江南に至ってから防いでも間に合わない」というものである。