明史卷一百四十二 列傳第三十 陳性善

出自と太祖への出仕

  • 陳性善は名を復初といい、字の方で通っていた。山陰の人。洪武三十年(1397年)の進士。合格者の名を読み上げる際、御前を通ったとき、帝はその立ち居振る舞いが重々しいのを見て長く目を留め、「君子だ」と言って行人司副に任じ、翰林檢討に遷した。
  • 性善は書に巧みで、便殿に召され、誠意伯劉基の子の璉が献上した父の遺書を書き写したことがある。帝は威厳があり、拝謁する者は多く恐れおののき、汗をかいて一字も書けないほどだったが、性善は落ち着いて振る舞い、字も端正で美しかった。帝は大いに喜んで酒と食事を賜い、一日中留めた。

惠帝への諫言

  • 惠帝は東宮にいたころから性善の名を知っており、即位すると禮部侍郎に抜擢した。性善の推薦で流人の薛正言ら数人が起用され、雲南布政使の韓宜可も謫籍にあったが性善の進言で副都御史として復帰した。
  • ある日、帝は朝を退いたあと性善だけを留め、座を賜って天下を治める要道を問うた。性善は手ずから書いて進め、帝はその言をすべて容れた。ところが担当官庁に阻まれた。性善は進み出て、「陛下は臣の不肖をかえりみず顧問に預からせ、僭越ながら聖聴を煩わせ、必ず行うと許された。それが幾ばくもなく撤回されては、汗を戻すようなもので、どうして天下を信服させられましょう」と述べた。帝は心を動かされて顔色を改めた。

靈壁の敗と入水

  • 燕師が起こると副都御史に改められ、諸軍を監した。靈壁の戦いで敗れ、大理丞の彭與明、欽天監副の劉伯完らとともに捕らえられた。まもなく全員が解き放たれたが、性善は「命を辱めたのは罪である。どの面下げて我が君にまみえられよう」と言い、朝服のまま馬を躍らせて河に入って死んだ。
  • 餘姚の黄墀・陳子方は性善の友で、同じく死んだ。燕王が京師に入ると、詔して性善の遺骸を戮し、その家を辺境へ移した。

彭與明・劉伯完

  • 彭與明は萬安の人。貢生として太學に入り、給事中を歴任し、建文の初めに大理右丞となった。清廉勤勉で機敏だった。督軍として捕らえられ、放たれて帰ったのち、恥じ憤って冠と衣裳を裂き、姓名を変えて劉伯完とともに逃亡し、消息は分からない。

陳植

  • 当時、侍郎として監軍に当たった者に盧江の陳植がいる。植は元末に郷試に及第したが仕えず、洪武年間に吏部主事となり、建文二年(1400年)に兵部右侍郎となった。
  • 燕兵が長江に臨むと、植は江上で戦を監し、意気高く将士を励ました。部將に降伏を迎え入れようと議する者があり、植が大義をもって厳しく責めたところ、部將は植を殺して降り、その上で恩賞を求めた。燕王は怒ってその部將をただちに誅し、棺を備えて植を白石山上に葬った。

王彬・崇剛・樊士信

  • 燕師が江北に至ったとき、御史の王彬は江淮を巡按して揚州に駐在し、鎮撫の崇剛とともに城に拠って堅く守った。
  • 盛庸の兵がすでに敗れ、人心が定まらないなか、守將の王禮が城を挙げて降ろうと謀った。彬は禮とその一党を捕らえて獄につないだ。剛は出て兵を練り、彬は守備の設備を修めて昼夜怠らなかった。
  • 千斤を持ち上げる力士がおり、彬は常に身辺に従えていた。燕兵は城中に矢文を飛ばし、王御史を縛って降る者には三品の官を与えると告げたが、左右は力士を恐れて誰も動けなかった。禮の弟の崇が力士の母に賄賂を贈って子を誘い出させ、彬が甲を脱いで沐浴する隙に不意に縛り、禮を獄から出して門を開き燕師を迎え入れた。彬と剛はともに屈せずに死んだ。
  • 彬は字を文質、東平の人。洪武年間の進士。剛は本貫が伝わらない。
  • また兵部主事の樊士信は應城の人。淮を守って燕兵を力戦して防いだが、及ばず死んだ。