出自と地方での治績
- 陳迪は字を景道といい、宣城の人。祖父の宥賢は明の初めに従軍して功があり、代々撫州守禦百戸となり、そのまま同地に居を構えた。
- 迪は豪放で志操があり、府學訓導に招かれ、郡のために万寿を賀する表を草した。太祖はこれに感心した。
- 久しくして経に通じているとして推薦され、侍講を歴任し、山東左參政として出て恵政が多かった。
- 母の喪に服し、明けて雲南右布政使に任じられた。普定・曲靖・烏撒・烏蒙の諸蛮が煽動して乱れると、迪は土兵を率いて撃ち破り、金と幣を賜った。
禮部尚書としての最期
- 建文の初め、召されて禮部尚書となった。当時、制度を改修していて沿革・損益が行われたが、迪の議によるものが多かった。
- 水害と旱害があって百官を集めて議させる詔があったとき、迪は刑獄を清め流民を招くことなど二十余事を請い、いずれも採用された。まもなく太子少保を加えられた。
- 李景隆らがたびたび戦に敗れると、迪は大計を陳べ、軍需の輸送を監督するよう命じられた。
- のちに変を聞いて京師へ駆けつけた。燕王が帝位に即いて迪を召して責問すると、声を励まして屈しなかった。子の鳳山・丹山ら六人とともに市で磔にされた。
- 死後、衣帯の中から詩と「五噫歌」が見つかった。辞意は悲壮で激烈であった。下僕の侯來保が遺骸を拾って帰葬した。妻の管氏は首を吊って死んだ。
- 幼子の珠は生後五か月であったが、乳母がひそかに溝に置いて難を免れた。八歳のとき仇家に密告されたが、成祖はその死を赦して撫寧に戍らせ、まもなく登州に移して蓬萊の人となった。洪熙の初めに赦されて郷里に還り、田産を給された。
- 成化年間、寧國知府の涂觀が祠を建てて迪を祀った。弘治年間、末裔の鼎が進士に及第し、應天府尹まで至り、剛直で評判が高かった。
黄魁・巨敬(陳迪に附す)
- 黄魁は出自が明らかでない。禮部侍郎となり、学問と品行があって典礼に通じていた。迪および侍郎の黄觀はいずれもこれを敬愛した。燕兵が入ると屈せず死んだ。
- 巨敬という者があり、平涼の人。御史から戸部主事に改められ、史官を兼ね、清廉謹慎で称された。迪とともに屈せず死に、その一族は誅された。