明史卷一百四十 列傳第二十八 盧熙

雎州同知としての抵抗

  • 盧熙は字を公暨といい、崑山の人。兄の熊は字を公武といい、兗州知府となった。当時、戦乱が収まったばかりのところへ魯王府の造営と河の浚渫の大役が重なったが、熊は心を尽くして采配し、民は煩わされずにすんだ。のちに累に坐して死んだ。
  • 熙は推薦されて雎州同知に任じられ、恵み深い政治を行い、知府の事を代行するよう命じられた。
  • ちょうど御史が命を受けて旧軍を捜索し、雎の民でみだりに軍伍に入っていた者千人を追送するよう熙に檄を出した。熙が民に自ら申告させたところ、かつて軍籍にあった者が数人だけ得られ、これを引き渡した。
  • 御史は怒って曹吏を捕らえ、全員を出さなければ詔に背いた罪で論ずると迫った。同僚は皆恐れたが、熙は「私は民の牧者である。民が散ってしまえば牧者が何の役に立つか」と言い、自ら御史のもとへ出向いて「州の軍籍はこれで尽きています。これ以上迫れば民は散ってしまいます。残っているのは同知だけです。私を役に充てていただきたい」と申し出た。
  • 御史は怒って追い払ったが、熙は堅く立って動かなかった。御史はついに志を奪えぬと知り、取りやめて去った。
  • のちに在官のまま没した。貧しくて葬儀もできず、役所が納棺の道具をととのえて喪を帰した。挽いて哭する吏民が道を塞ぎ、大雨であったが一人として引き返す者がなかった。

王士𢎞(盧熙に附す)

  • また王士𢎞という者が寧海知縣となった。靖海侯の吳楨が命を受けて方氏の旧兵卒を集めたとき、無頼の者が良民を誣告して巻き込み、台州・温州が騒然となった。
  • 士𢎞は封事を上り、その言葉はきわめて懇切であった。詔があって取りやめとなり、民はこれによって安んじた。

倪孟賢(盧熙に附す)

  • 倪孟賢は南昌の人。麗水知縣となった。
  • 民に売卜の者があり、富家に頼み込んで断られると、京に赴いて、大姓の陳公望ら五十七人が謀反を企てていると訴え出た。錦衣衛千戸の周原に捕らえに行かせる命が下った。
  • 孟賢が調べて事実をつかみ、僚属に「朝廷が私にこの邑を治めよと命じられたのに、善良な者が理不尽な苦しみを受けるのを座視できようか」と言い、ただちに疏を作って上申し、さらに長老四十人を朝廷に赴かせて訴えさせた。法司に下して取り調べたところ事実が明らかになり、密告した者を律に従って処断した。

郎敏(盧熙に附す)

  • また樂平の奸民もまた朝廷に赴いて、大姓五十余家が謀反を企てていると訴えた。饒州知府の郎敏が力を尽くして弁明を上奏し、詔によって奸民が誅され、誣告された者はことごとく釈放された。