明史卷一百四十 列傳第二十八 道同

番禺知縣として朱亮祖に抗する

  • 多通は河間の人。その先祖は蒙古族である。母に仕えて孝で知られた。
  • 洪武の初め、推薦されて太常司贊禮郎に任じられ、番禺知縣として出た。番禺はもとから繁劇で知られ、なかでも軍衛が横暴で、県の佐吏をたびたび鞭打って辱めていた。前任の県令はおおむね堪えられなかった。
  • 多通は厳格に法を執行し、道理に合わぬことにはすべて抗して従わなかったので、民はこれによって少しは安んじた。
  • まもなく永嘉侯の朱亮祖が着任し、たびたび威と恩をちらつかせて揺さぶったが、多通は動じなかった。
  • 土豪数十人が市中の珍貨を買いたたき、意にかなわぬことがあると罪を着せて謗っていた。多通はその首謀者を大通りで械にかけた。諸々の豪家は争って亮祖に賄賂を贈り、赦免を求めた。亮祖は酒宴を設けて多通を招き、とりなそうとしたが、多通は声を励まして「公は大臣でありながら、なぜ小人に使われるのか」と言った。亮祖は屈服させられなかった。
  • 後日、亮祖は械を壊して彼らを逃がし、別件を口実に多通を笞打った。
  • 富民の羅氏が娘を亮祖に納れると、その兄弟は勢いを恃んで不正を働いた。多通が再び取り調べると、亮祖はまた奪い去った。

誅殺と二人の使者

  • 多通は積もる不平から事を条書きにして奏上したが、まだ届かぬうちに、亮祖が先に多通の無礼を弾劾した。帝は事情を知らず、使者を遣わして多通を誅させた。
  • ちょうど多通の奏も届いた。帝は悟り、多通は職は低くとも大臣の不法を敢えて言うのだから、その人は剛直で用いるに足ると考え、あらためて使者を遣わして赦した。
  • 二人の使者は同じ日に番禺に着いたが、後の使者が着いたときには多通はすでに死んでいた。県の民はこれを惜しみ、木を刻んで位牌を作り家で祀った。占うたびに霊験があったので、神として伝えられたという。
  • 多通がまだ生きていたころ、布政使の徐本は多通を重んじていた。多通が一人の医者を笞打っている最中、本が急にその医者を必要として兵卒を遣わして釈放するよう伝えた。多通は毅然として「徐公も永嘉侯の真似をされるのか」と言い、笞を打ち終えてから引き渡した。以来、上官はますます多通を憚ったが、結局そのために禍を招いた。

歐陽銘(道同に附す)

  • これより先、歐陽銘という者がやはり事で将軍の常遇春に抗したことがある。銘は字を日新といい、泰和の人。推薦されて江都縣丞に任じられた。
  • 戦火の後で死んだり移り住んだりした民が十のうち七、八に及んでいたが、銘は招き寄せて慰撫し、しだいに生業に復させた。
  • 継母が子を不孝で訴え出た件では、両者を案前に呼び、丁寧に説き諭したところ、母子は泣いて礼を述べて去り、ついに慈と孝で称されるに至った。
  • 役所の裏の空き地を整えていて白金百両を得たが、ちょうど部から漆を徴する符が来ていたので、それで漆を買って納めた。
  • 臨淄知に遷った。遇春の軍が管内を通ったとき、兵卒が民家に押し入って酒を奪い、殴り合いになり、市中がこぞって騒いだ。銘は兵卒を笞打って追い返した。兵卒は「県令が将軍を罵った」と訴えた。
  • 遇春が問いただすと、銘は「兵卒が王の軍なら、民もまた王の民です。民が殴られて死にかけているのに、兵卒を笞打ってならぬのですか。銘は愚かでも、将軍を罵るはずがありません。将軍は大いなる賢者でいらっしゃるのに、なぜ一人の兵卒をかばって国法を曲げられるのですか」と答えた。遇春は怒りを解き、軍士を責めて詫びとした。
  • のちに大将軍の徐達が来たとき、軍士は互いに戒めて「あれはやり手の吏で、かつて常将軍に抗した男だ。手出しをするな」と言い合った。
  • 銘の統治は廉潔・静穏・公平寛恕で、暇があれば諸生を招いて文芸を講じ、あるいは単騎で田の間を巡って耕作と収穫を督励した。県は大いに治まった。任期を満たして入覲し、没した。