篇首の立伝者と附伝の一覧
- 本篇に立てられた伝と、その下に附された人物は次のとおり(底本の篇首の目録による)。
- 魏觀
- 陶垕仲(附:王佑)
- 劉仕貆(附:王溥・徐均)
- 王宗顯(附:王興宗・呂文燧・王興福・蘇恭讓・趙廷蘭)
- 王觀(附:楊卓・羅性)
- 道同(附:歐陽銘)
- 盧熙(附:凡熊・王士𢎞・倪孟賢・郎敏)
- 青文勝
遺賢の招聘と諸官の歴任
- 魏觀は字を杞山といい、蒲圻の人。元末は蒲山に隠棲していた。太祖が武昌を下すと招かれ、國子助教に任じられた。再び遷って浙江按察司僉事となった。
- 呉元年(1367年)、両淮都轉運使に遷り、入って起居注となった。命を受けて呉琳とともに幣帛を携え、四方に遺賢を求めた。
- 洪武元年(1368年)、大本堂が建てられると、太子に侍って書を説き、諸王に経を授けるよう命じられた。まもなく文原吉・詹同・吳輔・趙壽らとともに手分けして天下を巡り、埋もれた人材を訪ね求めるよう命じられた。推挙した者は多く登用された。
- 洪武三年(1370年)、太常卿に転じ、諸々の祀典を考訂して旨にかない、侍讀學士に改められ、まもなく祭酒に遷った。
- 翌年、孔子を祀る礼を考えるにあたって時宜にかなった奏をしなかったとして、龍南知縣に謫せられたが、まもなく召されて禮部主事となった。
蘇州知府としての治績
- 洪武五年(1372年)、廷臣が観の才を推薦し、蘇州知府として出た。
- 前任の守である陳寧は苛酷で、人は「陳烙鉄」と呼んでいた。觀は寧の行いをことごとく改め、教化を明らかにし風俗を正すことを政の眼目とした。
- 学舎を建て、周南老・王行・徐用誠を招いて教授の貢潁之とともに学礼を定めさせ、王彝・高啓・張羽に経史を校訂させ、郷里の長老である周壽誼・楊茂・林文友に郷飲酒礼を行わせた。政治と教化は大いに行われ、考課の成績は天下第一であった。
- 翌年、四川行省參知政事に抜擢されたが、赴任前に管下の民が留任を願い出たので、もとの任に復するよう命じられた。
誅殺とその後
- もともと張士誠は蘇州の旧来の役所を宮としたので、府の役所は都水行司に移されていた。觀はその地が低く狭いとして、旧来の敷地に役所を戻した。また錦帆涇を浚渫して水利を興した。
- ある者が「觀はすでに滅ぼされた者の基を興そうとしている」と讒言し、帝は御史の張度に事を調べさせ、觀はついに誅された。帝もまもなく後悔し、遺骸を帰葬させた。