明史卷一百三十八 列傳第二十六 楊靖

進士から戸部尚書へ

  • 楊靖は字を仲寧といい、山陽の人。洪武十八年(1385年)の進士で、吏科庶吉士に選ばれた。翌年、戸部侍郎に抜擢された。
  • 当時、諸司の任にあたる者はおおむね進士と太學生であったが、不法を働く者もあった。帝は『大誥』を作り、通政使の察瑄、左通政の茹常、工部侍郎の秦逵と靖とを挙げて世を諷し励まし、「これもまた進士・太學生である。職務をよく果たして朕の心にかなっている」と述べた。称えられぶりはこのようであった。
  • 洪武二十三年(1390年)、尚書に進んだ。

刑部尚書としての獄の運用

  • 洪武二十四年(1391年)五月、在京の官は三年で一律に遷調するよう詔があり、令として定められた。そこで刑部尚書の趙勉と靖とが官を交換した。
  • 帝は諭して「愚民が法を犯すのは飲み食いするようなもので、法を設けて防ぐほど犯す者が増える。恕を推し仁を行えば感化できよう。今後は十悪および殺人を犯した者だけを死罪とし、それ以外は粟を納めさせて北方へ還すこととせよ」と述べた。
  • また「在京の獄囚については卿らが覆奏し朕が自ら審決してもなお過ちを恐れる。まして外の各官の擬した罪がすべて妥当であろうか。卿らが詳しく讞じたうえで官を遣わして審決せよ」と述べた。靖は旨を承けて綿密に処理し、多くを平反した。帝はこれを嘉納した。
  • ある武弁の門卒を取り調べた際、身体を検めて大きな真珠が出てきた。属僚は驚いたが、靖は静かに「偽物だ。これほど大きな珠があるものか」と言って砕いた。
  • 帝はこれを聞いて感嘆し「靖のこの行いには四つの善がある。朕に献じて歓心を買おうとしなかったのが一。献上を口実に立身しようとしなかったのが二。門卒を賞して小人の僥倖の道を開かなかったのが三。千金の珠が突然目の前に現れても少しも動じなかったのは、人に過ぎた智と応変の才があるからで、これが四だ」と言った。
  • 洪武三十六年(該当する年はなく、二十六年の誤りか)、太子賓客を兼ね、二つの禄を併せ給された。まもなく事に坐して免ぜられた。

安南への使いと最期

  • 龍州の趙宗壽を征討するにあたり、靖に安南を諭して粟を輸送させ軍を賄わせるよう詔があり、白衣のまま赴いた。
  • 安南の相の黎一元は陸運の困難を理由に詔に応じまいとしたが、靖は繰り返し説き明かし、水運でもよいと許した。そこで一元は粟二万を沲海江まで運び、別に浮橋を造って龍州へ達させた。帝は大いに喜び、靖に左都御史を拝した。
  • 靖は公正忠実で智略があり、繁劇を処理するのに巧みで、獄を治めるにあたって明察でありながら法文を厳しく適用して人を陥れることをしなかった。厚遇は同列に比べる者がなかった。
  • 洪武三十年(1397年)七月、郷里の者のために訴えの状の草稿を書き改めてやったことに坐し、御史に弾劾された。帝は怒って死を賜った。時に三十八歳。

凌漢(楊靖に附す)

  • 当時、凌漢という者がいた。字は斗南、原武の人。秀才として挙げられ、「烏鵲論」を献じて官に任じられた。
  • 御史を歴任し、陝西を巡按して管轄地の窮乏について数事を上疏した。帝は善しとしてその子を召し、衣と鈔を賜った。
  • 漢の獄の裁きは公平妥当であった。京師に還る途中、徳漢という者が酒宴に招いて多額の金を贈ろうとしたが、漢は「酒は飲めるが金は受け取れぬ」と言った。帝はこれを聞いて感嘆し、右都御史に抜擢した。
  • 当時、詹徽が左都御史であり、議論が合わずそのたびに面と向かって非を責めたので、徽はこれを恨んだ。刑部侍郎に左遷され、礼部に改められ、のち徽に弾劾されて左僉都御史に降された。
  • 帝はその衰えを憐れんで郷里へ帰らせようとしたが、漢は徽が在職している以上あとの災いを恐れて去ろうとしなかった。一年余りして徽が誅されると、再び右僉都御史に抜擢され、まもなく致仕して帰った。
  • 漢は言葉を慎まず、官にあってたびたびつまずいたが、廉直であることを帝に知られていたので、最後まで身を全うすることができた。

嚴徳珉(楊靖に附す)

  • また呉の人の嚴徳珉は、御史から左僉都御史に抜擢されたが、病を理由に帰郷を願い出た。帝は怒って顔に黥を入れ、南丹に謫戍とした。赦に遇って放還され、布衣で徒歩の暮らしをして自ら庶民と同列に置いた。宣徳年間になってもなお存命であった。
  • あるとき事件で御史に召し出された。徳珉は堂下に跪き、自ら「かつて臺で公務を担当し、法にはいささか通じております」と述べた。御史が何の官かと問うと、「洪武年間の臺長と申された嚴徳珉がそれです」と答えた。御史は大いに驚き、礼をして立たせた。翌日訪ねてみると、すでに荷を担いで転居した後であった。
  • ある教授が徳珉と酒を飲み、顔の黥と破れた冠とを見て「ご老人は何の法を犯されたのか」と問うた。徳珉は先の経緯を語り、「昔は国法がきわめて厳しく、仕える者は首すら保てなかった。この破れ冠を替えないのはそのためだ」と言い、北に向かって手を組み、「聖恩、聖恩」と唱えた。